四国電力アスベスト中皮腫労災死裁判が松山地裁で和解~日本初の発電所被害/愛媛

心ある多くの協力、「謝罪」引き出し勝利和解

白石昭夫
愛媛労働災害職業病対策会議(現:NPO愛媛労働安全衛生センター)事務局長

四国電力アスベスト労災訴訟が、昨(1999)年10月、松山地裁において和解した。

11月18日に、中心的に裁判を支えてきた愛媛労働災害職業病対策会議の総会に合わせて、「四国電力アスベスト裁判報告集会」が開催された。集会では、愛媛労職対・白石昭夫事務局長、瀬戸内法律事務所・草薙順一弁護士、全国安全センター・古谷杉郎事務局長が報告を行い、最後に、原告である故淺木一雄さんの奥さんと娘さんがお礼を述べた。

昭和19年から40年間、四国電力に勤めておりました主人が、アスベストでの因果関係でがんの一種である悪性中皮腫で、昭和59年、在職中に死亡いたしました。主治医の死亡時の説明では、職業病であると指摘されました。
平成3年、新居浜の労職対の「アスベスト110番」の開設を新聞で知り、相談にまいりましたところ、白石さんはじめ皆様が相談に取り組んでくださることになり、長い8年間ご尽力下さり、やっと10月末、四国電力との和解が成立いたしました。
これもひとえに労職対の組合員の皆様方、全国安全センターの先生方、弁護士の先生方のご支援のおかげと深く感謝いたしております。この場をお借りして一言お礼を述べさえせいただきます。本当に長い間ありがとうございました。
家族を代表いたしまして、私のお礼の言葉に代えさせていただきます。どうもありがとうございます。

愛媛労職対では、とくに鈴木康之亮先生の証言に向けて準備した膨大な文献の翻訳、証言調書、等を含めた報告書を作成することを決定している。

アスベスト裁判が和解した。裁判を開始して6年、アスベスト110番に相談してから9年、死亡されてから15年の年月がかかった。和解金500万円の内容は決して十分満足のいくものとは言えない。しかし四国電力という大企業を相手に、発電所の中に入っていくこともできず、現場の資料も得られない中で、口頭とはいえ四国電力より謝罪を引き出したことは成果のひとつであり、勝利である。

この裁判において、淺木さんの遺族は歯を食いしばってそれに臨んできた。一方、この裁判は困難が予測される中で、草薙薦田弁護士事務所(松山)の草薙順一弁護士が中心となり手弁当での取り組みが開始された。そして瀬戸内法律事務所に改名後も、藤田育子弁護士により奮闘が続けられ、さらに横浜・協同法律事務所の森田明弁護士が加わって弁護団を形成し、裁判が続けられた。

他方、この裁判では、死亡原因をめぐり医学論争が展開された。そして、全国各地で労災職業病に取り組んでいる医師や専門家、活動家の協力により医学文献の収集や海外の情報の収集、翻訳作業が全国規模で行われた。そういった中でニューヨークのマウントサイナイ医科大学の鈴木康之亮教授の全面的な協力を得ることができ、日本初の発電所アスベスト裁判に臨んできたわけである。

四国電力側は、淺木さんの死亡をアスベストによるものでないとして、全面的にこれを否定した。西条火力発電所は、伊方原子力発電所と並び、四国でも有数の発電所。淺木さんは、約40年勤めた四国電力の社員であり、亡くなった当時は管理職でもあった。人口5万人の街では、大企業に逆らうことは、様々な圧力を覚悟しなければならない。当然のごとく、職場の安全管理状況の実態証言を引き出すことは容易ではなかった。

淺木さんの死亡時(1984年2月24日)、担当医師は妻に、淺木さんの病名が悪性中皮腫であること、アスベストによるものであることを告げた。そして、医学の発展のために解剖する同意を求めた。看護婦だった奥さんは、「医学の発展のため」ならと同意、愛媛大学で死体解剖が行われた。しかし、なぜか主治医は、「今はアスベストは労災にならないが、いずれ労災扱いとなるでしょう」との説明が加えられた。こうして、1991年のアスベスト110番が実施されるまでに8年の年月が過ぎ、朝一番で直接相談に来られたにもかかわらず、その時には労災保険の時効が過ぎていた。

淺木さんに症状が出てから死亡するまで、家族にとっては、あっという間の出来事だった。働きざかりの淺木さんが亡くなり、奥さんには新築したばかりの家のローンと大学受験を控えている子供さんが残された。今では子供さんもそれぞれ大人になり、家庭を持ち、人に苦労を見せない奥さんですが、今日に至るまでの苦労は察することができる。

アメリカでは、1991年に連邦裁判所に発電所労働者の696例の集団訴訟が行われ、またニューヨーク州裁判所でも同様に880例の集団訴訟が行われている。その多くは、悪性中皮腫・肺がん、石綿肺であり、残りも胸膜肥厚斑・胸膜繊維腫等の病名。しかし、日本ではたった一例、淺木さんの事例しかないのである。今回の裁判においては、遺族と支援する愛媛労働災害職業病対策会議など地域安全センターと専門家の闘いだった。アスベストによる悪性中皮腫の潜伏期間は20年以上。今後も被災者はさらに出てくるものと思われる。

悪性中皮腫も肺がんも石綿肺も全て仕事が原因の病気であり、アスベストの危険性がわかっていながら使用し続けたための病気である。労働者は好んで被災しているのではない。医学や科学が進歩していないから起きているのでもない。アスベストの危険性を知らせず、対策をとらず、放置したために起きているのであり、企業や行政は当然責任が問われなければならないし、また、アスベストによる病気と診断した医師も、せめて遺族に職業病であることや補償制度があることくらいは説明すべきである。

今日もアスベストで死亡した遺族の多くは補償制度さえ知らない状況にあると考えられる。このことはとりもなおさず、今なお政府がアスベスト全面禁止に踏み切っていないことと無縁ではない。

今回の裁判では全面勝利とはいかなかったが、厳しい条件の中で最大限、闘い抜いたと思う。今後さらに、被災者・遺族への働きかけを通じアスベストの危険性を訴え、アスベスト禁止を勝ち取る運動を成功させる必要がある。

解決報告・淺木事件(四国電力アスベスト労災死事件)

弁護士・森田明

1 提訴と争点

淺木一雄さんは、昭和19年から昭和59年までの約40年にわたり、四国電力西条発電所の現場で電気運転員、電気補修員として働き、定期点検や日常の修理点検の際、アスベストに曝露されてきた。一雄さんは昭和59年2月24日に亡くなり、死因は死亡診断書では悪性中皮腫とされていたが、病理解剖では肺がんとされた。

平成5年11月に妻のピサ子さんと3人の子が原告となって、約6,400万円を請求する訴訟を提起。被告・四国電力は、一雄さんの職場ではアスベスト粉じんを吸う機会はなかったはずであり、死因は肺がんで、アスベストではなく喫煙が原因であること等を主張して全面的に争った。

訴訟では、早い時期に双方から鑑定申請がされた。鑑定で悪性中皮腫となれば、原因がアスベストであることが明らかになるし、被告の職場に起因することも推定できると考え、原告側も申請したのである。

2 八方ふさがりからの脱出

しかし、平成8年6月に提出された北川正信教授(福井医科大学)の鑑定は、悪性中皮腫を否定し肺がんとするもので、被告側に極めて有利なものであった。

次いで裁判は、作業実態(アスベスト曝露の有無)の立証に入ったが、本人は既に亡くなっており、奥さんは現場を直接は知らず、陳述書を書いてくれた同僚は会社からの働きかけで会社に有利な「訂正陳述書」を出すなど立証は難航し、会社側の2人の証人の証言がまかり通ってしまいそうになった。

それまで訴訟は地元の藤田育子弁護士が中心になって進めていたが、平成9年の夏頃から、ちょうど横須賀石綿じん肺訴訟が終了したこともあって、私が加勢することとなった。何とか反撃に出ようと資料集めに努めたりもしたが、現場である四国電力西条発電所に関する資料は極めて乏しく、ましてそこでのアスベスト粉じんの実情をうかがわせるような資料は容易に見つからない。現場検証の申立などしたが、現在の発電所と当時とでは大違いで、苦しまぎれの観は否定できなかった。

切り札として考えていたのが、アスベスト疾患の世界的権威であるアメリカの鈴木康之亮医師の証言である。しかし、鈴木先生に意見を聞こうにも、鑑定後パラフィンブロック等の標本類は愛媛大学に返されてしまっており、裁判所も再び取り寄せ手続はしてくれそうにない。

八方ふさがりの中で、某医師のアドバイスから、遺族には標本の引き渡しを求める権利があることがわかり、これを挺に交渉して、大学から資料を預かり、アメリカへ送って、鈴木先生による分析・検討を受けることができた。この結果、具体的な根拠を示して悪性中皮腫と診断する意見書を作成していただき、平成10年6月に提出。そして、被告の抵抗を排して鈴木先生を証人として採用させた。

しかし、この時点ではまだ裁判所の姿勢は、「原告が他に立証方法がないというので一応聞いてあげましょう」という程度のものであった。

平成11年3月に、鈴木先生の証人尋問。わざわざ来日いただくので、1回で反対尋問まで終わらせる予定で、そのために主尋問のアウトラインや資料を事前提出し、尋問の打ち合せは前日集中して行なうというハードスケジュールとなった。

尋問の大部分は藤田弁護士が担当したが、実は彼女は海外移住のために3月一杯で弁護士を辞めることになっており、いわば最後の仕事としてこの尋問を行なった。鈴木先生の証言は極めて明快で説得力があり、被告の反対尋問はヤブヘビとなった。裁判所の考え方も大きく変わったようであった。

3 「和解」へ

被告もこのままではまずいと、北川鑑定人の尋問を求め、これを実施する前提で、打ち合せの期日が6月にもたれた。しかし、この席上で、裁判所は突然、双方に和解勧告をした。被告代理人はびっくりして、「まず北川尋問をやってからにしてほしい」と抵抗。原告側もこの段階での和解が妥当か迷ったが、裁判所が、基本的には原告側に有利にと考えて北川尋問前に勧告したことを尊重して、和解の席に着くこととした。裁判所の重ねての勧告で、被告も和解を検討することとなった。

以後、8月、9月、10月と3回にわたり和解期日を持ち、双方から案を提示した。双方の案の開きは大きかったが、最後は裁判所の提案で500万円という金額で10月30日に和解が成立した。

500万円という額は、もちろん、人の死亡の損害としては十分な額ではないが、責任がないことを前提とする「見舞金」としての額の水準は超えており、完全にではないにせよ、実質的に責任を認めたものと評することはできよう。また、原告側からは金額もさることながら、被告の弔慰及び安全対策への努力の表明を和解文言に入れることを求めたが、これは裁判所自体が消極的で実現できなかった。ただ、和解手続終了後、被告代理人が原告本人らに対して、「あいさつ」をすることで「弔慰」の一端を示した。

4 感想など

この裁判は、松山の藤田弁護士が訴訟活動の大部分を背負ってこられた。私はたいしたことはしなかったのだが、多くの支援の方々の力を得て、突破口を見い出すことができた。私はちょうどその転機に関与し、最終段階に立ち会うという「良い思い」をさせていただいた。特に圧巻であったのは、やはり鈴木康之亮先生の証言で、私にも大変勉強になったし、何より、裁判所の姿勢を決定的に変える力を持っていた。

鈴木先生、そして鈴木尋問にさきがけて膨大な文献の翻訳をお引受けいただいた方々をはじめ、ご支援いただいた皆様に改めて感謝申し上げたい。

安全センター情報2000年1・2月号

四国電力アスベスト中皮腫労災死事件関係安全センター情報記事

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※この記事の愛媛報告の中にある「Aさん」が本件相談であった。

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