三井倉庫港湾石綿被害中皮腫損害賠償事件・最高裁が被告上告不受理を決定、大阪高裁完全勝利判決が確定/港湾アスベスト被害で画期的成果
有数の石綿取扱量ー神戸港
神戸の高台から港を見下ろすと、眼下に飛び込んでくる港湾倉庫群。
三井・三菱・住友・篠崎…、日本でも有数の港、神戸港。
昭和51年には石綿輸入量が日本一となり、全国の総輸入量の3分の1の取扱量があった。多くの人の手を経て港湾を通過した石綿。それらは、手鉤で持ち上げられ、放り投げられ、また「捲り返し」といった乱雑な荷役方法がとられた。貨物船の中、艀の中、パレットに積み上げ、フォークリフトで運び、倉庫に積み上げ、こぼれた石綿を掃き集め、数量を数えた人々。
27年間三井倉庫勤務し胸膜中皮腫で1999年に死去
三井倉庫事件は、安全配慮義務違反等を理由にして、損害賠償請求訴訟を提起した事件である。
被災者の故Nさんは、1951年から約27年間三井倉庫に勤務。運搬用のトラクターに石綿を積載し岸壁から倉庫への搬入などに従事。退職後の1997年頃、悪性胸膜中皮腫と診断され、治療を続けるも1999年に77歳で亡くなられた。
損害賠償提訴ー地裁、高裁勝訴
2007年2月神戸地裁に、原告である妻と長男が提訴。6年9か月の裁判闘争だった。
裁判では、三井倉庫が「石綿の取扱量が少ない」と主張し石綿曝露を争い、さらに中皮腫発症を予見できたのは1981年以降であると反論し、予見可能性も激しく争われたが、地裁は疾病と業務の因果関係を認め、会社側の安全配慮義務違反を認定した。
高裁では、「じん肺法の解釈では三井倉庫側の主張に分があると思う」と一瞬ヒヤリとする場面もあったが、これは裁判官のダメ押し、より確固としたものを狙ったものと思われる。判決は「昭和35(1960)年制定の『じん肺法』によって危険性は予見できた」と一審判決を支持し、故有年さんが業務で石綿粉じんに曝露して死亡したことを認めた。
さらに、日本有数の総合物流業者であるとして、労働者の安全を配慮する社会的責務がより大きいことも指摘した。
最高裁判事全員一致で大阪高裁判決支持
三井倉庫は上告したが、2013年11月21日、最高裁第一小法廷は、裁判官5人の全員一致で「上告申立を受理しない」旨を決定し、約3,600万円の支払いを命じた2011年2月25日の高裁判決が確定した。これは港湾アスベスト被害に関する初めての最高裁決定であり、他のアスベスト訴訟にも大きな影響を与えることは間違いないだろう。
原告の中本文明(長男)さんは、「活動を続けているうちに神戸港でアスベスト被害にあわれた方々と面識を持ち、私の活動を支えていただける多数の方々と知り合うことができた。こんなにも問題意識を持つ人が多くいることを知った。苦しんでおられる方も多いのに驚いたのを覚えている。私が負ければ港湾裁判だけでなく、いま闘っている多くの方への影響は必須。絶対に、苦しんで逝った父の無念のために、負けてはならないとの信念で闘い続けた」と感想を述べている。
弁護団長の松村昭夫弁護士(大阪アスベスト弁護団)は、
「すばらしい成果を得た。しかし、三井倉庫はいまなお謝罪も反省もしていない。この裁判の成果を港湾関係等のアスベスト被害の救済に大いに活用していただくことが、無反省な三井倉庫を一層追い詰めていくことになるのではないか」と決意を新たにしている。
弁護団の伊藤明子弁護士は、
「提訴から6年9か月、うち2年9か月が最高裁判所待ちの長い闘いだった。奥さんが御健在のうちに勝訴の報告ができたことに心底ホッとしている。主張立証を補充したお蔭で、結果的には、地裁判決を上回る高裁判決となった。意見陳述や、多くの方々が証人や証拠探しに協力して下さり、地裁・高裁とも毎回多くの方に傍聴支援をいただいた。今回の成果が港湾アスベスト被害の救済につながることを願って止まない」と振り返っている。
ひょうご労働安全衛生センターも、当時の資料や証人探し、傍聴などの裁判闘争を積極的に支援した。
高度成長期を一生懸命働き、働いたがゆえにアスベスト疾患に発症された。誰しも天命を全うする権利がある。しかし、その命が強制的に奪われているのである。
なぜ頑なに企業は、裁判を引き延ばしたのか。国、企業は、アスベスト被害者への二重三重の過ちを繰り返してはいないか。港湾アスベスト被害は、倉庫、元請、エーゼントや荷役作業をする作業会社、港運会社などがあり、作業会社や検数員に多くの被害が発生し、現在その発症期を迎えていると思われる。
港湾に被災者救済の補償基金が設立されたと聞いているが。生前に一日でも早くこのような補償制度の救済措置が適用されることが望まれる。
記事/問合せ:ひょうご労働安全衛生センター
安全センター情報2014年5月号