ペルー人労災損賠裁判和解:根本に派遣会社の「労災隠し」/ 愛知
労災保険を知って相談に
H氏の労災損害賠償裁判の控訴審が、昨年11月24日和解解決した。
被災したのが1992年10月16日であり、それから考えるとH氏には非常に長い年月だったであろう。被災当初は、労災保険制度について知らず、3年後に初めて労災保険のことを知って関西労働者安全センターに相談し、労災補償を請求するにいたった。外国人労働者の在留状況は非常に不安定であり、また、事業主は権利主張するような労働者を警戒するので、裁判のために欠勤することさえ難しい、そんな中なんとかやり遂げることができた。
労働災害および提訴の内容は次のようなことである。
「派遣先」で重傷
H氏は、事業主の派遣会社中部工業より愛知県の鋳造会社「外山鋳造」に派遣されて働いていた。1992年10月16日、鋳造に使う砂を運ぶバケットエレベーターが作動せず、H氏はバケットエレベーターの上部に上って、機械の調整を手伝っていたところ、別の労働者が突然作動スイッチを入れ、足をかけていたチェーンが回りだし、チェーンと歯車の間に左足を巻き込まれて重傷を負った。
事故後3年、労災保険知る
中部工業は、労災保険を適用せず、交渉の末、入院中の療養費と休業補償の一部を支払ったのみであった。退院しても当分は働けない状態であったので、本人は退院後すぐに帰国した。1995年、日本に働きにきていたH氏は、新聞で労災保険の存在を知ってセンターへ相談し、労災保険の障害補償給付を受けることができたが、休業補償は時効により請求権が失われていた。障害等級11級に決定され、派遣先の外山鋳造に対して損害賠償を請求した。
原告側主張は、工場内の作業において外山鋳造の指揮監督下にあり、外山鋳造は安全配慮義務を負うため、約2,270万円の損害賠償を支払えというもの。
一審判決では、外山鋳造の安全配慮義務違反を認めたが、損害賠償額を280万円とした。
控訴した時点で、問題点は主に、「本人の過失3割」、「日本での就労可能期間3年間」のふたつであった。
過失割合と就労可能期間が争点
ひとつ目の過失3割というのは、劣悪な労働環境でありながら、安全教育なし、安全靴も支給していないという状況に即さない判決だった。また、ふたつ目の就労可能機関3年というのも、単に1997年の最高裁判例(安全センター情報1997年4月号参照)にならって、在留資格がなかったのだから3年としたに過ぎなかった。しかし、H氏の在留状況は、この8年の間に変化している。事故当初は在留資格があったが、3度目の来日時に在留資格が不許可になってから超過滞在になり、その間に労災申請、損害賠償裁判提訴にいたった。そして、裁判中にペルーに帰国し、日本人のAさんと婚姻した。
控訴後に日本人の配偶者としての在留資格を得て日本に入国、現在も日本で生活をしている。裁判で原告側は、日本人との婚姻により日本での在留が可能になったので、日本人と同様に日本での平均賃金を元に補償額を算定するべきと主張した。
一審判決を上回る和解
控訴審での和解では、判決文として明記されることはなかったが、上記の点について一審判決に比べてかなり考慮されることとなった。
原告の過失は2割、日本での就労可能期間は5年として計算された。やはり、現在は在留資格があるとは言え、症状固定時には超過滞在であったことから、すべての期間日本の平均賃金で算定することはできないという結論であった。これらの条件で算定した金額は、原告の請求額に対してわずかな額であったが改善され、被告側の支払能力の問題も考慮し、承諾した。
事故当時の労災隠しから始まり和解までの苦労を考えれば不満はあるが、一定の補償を得ることができて、支援者として正直安堵した。
労災隠しの果てに
H氏の労災事件は、外国人の労災問題の典型的な事例といえる。
被災現場の鋳造工場は、バブル崩壊後の不況などもあり、派遣業者を通して外国人労働者を働かせ、保護具の支給はじめ外国人労働者へのケアは、人夫出しをしているだけで現場の労働を知らない派遣業者に一切任せていた。機械も老朽化し、たびたび故障を起こしていたにもかかわらず、現場労働者に修理させて使用を続けていた。その結果として、この労災事故は起こったといえる。
また、労災発生後、派遣業者はろくに被災者の世話をせず、もちろん労災保険の補償などを受ける権利は本人に知らされなかった。結果、本人は治療半ばで失望したまま帰国し、その後の療養や休業補償を受けることができなかった。
センターで相談を受けてから、労災請求したときにも、派遣業者は、証明を拒否し、反対にH氏を恩知らずとののしる始末であった。もちろん損害賠償請求には応じず、裁判提訴することになった。
こうして、けがを負った身体で失意のうちに帰国した外国人労働者は、かなりの数に上るのではないだろうか?
最近では、「仕事上のけがの場合補償がもらえるらしい」ということは外国人の間でも知られるようになったが、それでも少ない補償でごまかされ、「労災隠し」されているケースはまだまだ多いだろう。
今回の和解解決で喜ぶとともに、あらためてこういった隠されたケースの掘り起こしに取り組まなければならないと思われる。
H氏は日本で妻と共働きしながら、新たな生活を築き始めている。今回の事件の解決は日本での生活のうえで、がんばったという自信となって今後彼を助ける二とになるのを願う。
正当な権利の結末
J.H
書き始めるにあたって多大なる支援をいただいた田島陽子さんはじめ関西労働者安全センターと、同じくこの訴訟での弁護をしてくださった位田弁護士にお礼を申し上げます。
このすばらしい地に住む外国人として、日本の持つ優れた制度にも感謝しなければなりません。それがなければ、補償を得るのは非常に難しかったでしょう。
裁判は、長くうんざりするもので、やめたくなることもありました。また、この闘いはわたしひとりのものでなく先に述べた人たちがいるということを、思い起こし、自問したりもしました。
この長い裁判が終わった現在、それはわたしにとって、生涯でも喜ばしい、忘れられない経験となりました。それ以上に重要なのは、外国人として、社会正義と基本的入権の保護の先例のひとつとなったということです。
幸い終了したこの長い過程において、重大な問題がありました。それは、補償を定めるときに裁判制度がおこなう日本人と外国人との区別です。日本人側には労働法令による権利の範囲すべてが認められます。一方、わたしたち外国人には、日本人に与えられる補償の範囲が認められません。個人的には、その面でこの国の裁判制度が、人間の平等な権利の擁護において国際基準のレベルにないということが法的空白をうんでいると思います。
この長い裁判は原告、被告ともによく対策を講じたおかげで終了し、裁判官が提案した和解は非常に重要でした。
最後にもう一度わたしを支援してくださった方々に感謝し、わたしもまた合法、あるいは非合法な多くの労働者を支援する安全センターのような団体を支援したいと思います。わたしが受けた支援すべてに感謝しており、わたしの国にもこのような団体があればよいでしょう。
人々がわたしたちの権利をますます尊重してくれることを望みます。
安全センター情報2001年4月号