追悼:右田孝雄さん/大阪●ブログは一万回を超える投稿

中皮腫患者としてNPO法人中皮腫サポートキャラバン隊の代表を務められ、同じ病気に苦しむ患者と手を取り合って積極的に患者としての意見を社会に対して発信し続けていた右田孝雄さんが、2024年3月2目、ご自宅で家族に見守られながらお亡くなりになりました(享年59歳)。あらためてご冥福をお祈りするととともに、右田さんの闘病と活動lこついてお話したいと思います。

気遣いの人である右田さんですから、口に出して大声で言うことはなかったのですが、私たちとのファーストコンタクトは必ずしも良かったとは言えません。そのため、「中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会」の活動に積極的に参加されるまで発症からすでに1年が過ぎていました。中皮腫に罹患された方にとって1年という時間がいかに貴重なものであるかは言うまでもありません。余命2年と確定診断時に伝えられた右田さんにとってはなおさらだったと思います。

発症当初から右田さんはブログを開設し、同じく闘病生活を送っている中皮腫患者やそのご家族との交流を通じて「中皮腫・同志の会」を結成、情報交換をしたり、励まし合ってきました。全国の中皮腫患者に声を掛け、一堂に会すという、世界を見まわしでも例を見ないイベントを企画し、それを継続できた背景には、治療や病院とのやり取りを細かく発信してきたこと以外に、明るくて愛にあふれる右田さんの日常を他の患者も共有してきたことが一因だったと思います。阪神タイガースファンという、好みが激しく分かれるようなものであっても、右田さんがブログに書けば勝敗に一喜一憂するひとりのスポーツファンの話として共感できることが多かったのではないでしょうか。

「中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会」への加入は、先ほど述べたように発症後1年が過ぎてのことですが、はじめて私がご自宅におうかがいして1か月もしないうちに、右田さんは東京で開催された「中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会」による省庁交渉に参加してくれました。同じく中皮腫患者の栗田英司さんと一緒に「中皮腫サポートキャラバン隊」として活動するようになってからは、さらにその活動の幅がひろがっていきます。ちょうど省庁交渉当日に患者と家族の会の役員に披露された「7本の矢」、すなわち、①希望が持てる中皮腫患者の体験記の作成、②中皮腫ポータルサイトの設立、③中皮腫サポートキャラバン隊の結成、④標準治療確立のだめの仕組みづくり、⑤中皮腫フェスタの開催、⑥アスベスト情報センター設立の検討、⑦中皮腫患者100人集会の開催、は、いずれも目標を達成し、現在、中皮腫サポートキャラバン隊はNPO法人として、さらに積極的に被災者運動を展開しています。

右田さんの自身の活動範囲も全国におよび、どれだけ多くの中皮腫患者を勇気づけ、中皮腫で家族を亡くされた方を慰めたかについては言うに及びません。各地で開催される相談会に右田さんが来る、というだけで、はじまる前から相談会が成功したような気にすらなりました。また、患者さんからの療養に関する相談電話に対しては、まずは右田さんを紹介し、治療や心構えを説いてもらっていました。無理を押して海外にも遠征し、一度は熱を出して帰ってきたこともあります。

目標到達に向けて一直線に進んでいましたが、決して順風満帆であったというわけではありません。見送る側の辛さ、やりきれなさを何度も繰り返し経験されてきました。「また会おう」と別れたばかりの方の突然の訃報、少しずつ衰弱していく仲間の最期、そして自分にも確実に追ってくる死への恐怖に何度も絶望を感じていたように思います。年中一緒に活動をしている私たちにその辛さを吐露することはできても、ひとりになったときに亡くなっていった仲間や自分の未来を思い浮かべると、心穏やかでいられるはずがないのです。また、対行政においては、患者からの意見が少しも顧みられないことにこのうえなく落胆させられていました。

それでも自棄を起こすことも投げ出すことなく、右田さんは前向きな情報発信を続けてきました。当センターの機関誌「関西労災職業病」に6年間、「死ぬまで元気です」というタイトルの67回におよぶエッセイを寄稿してくれました。また、右田さんの活動の源流とも言えるブログを見直してみると、2016年7月17日から7年8か月の問、1万回を超える投稿をしています。そこには常に仲間や友人、家族に対する感謝の言葉が綴られています。慎りにはユーモアを交え、そしてスポーツや音楽、日々の暮らしなど右田さんの好きなものを存分に添えて、これからも新たに中皮腫に罹患した方々の心の支えになっていくでしょう。

酒井恭輔(関西労働者安全センター)<「もくれん」名古屋労災職業病研究会機関誌より転載>