毎日新聞社大阪本社 労災隠し取材班/(2004.11.15)web版

労災隠しについてさまざまな関係者を取材し、記事にしてきた。
この章では、その中で報道されなかった取材メモや投書の一部を紹介する。

特に医師、被災者、労基署などの取材対象者の生の声をたどっていくと、その労災隠しの巧妙な手口、右往左往する被災者、構造的な問題、間に立つ関係者の苦悩が浮かび上がってきた。

また、国会でも労災隠しの問題が取り上げられ、労災保険料の「メリット制」を中心に質疑が交わされた。
その中では、今回の報道によって明らかになった労災隠しの実態に基づいて、労災保険制度の仕組みによっては意図的な労災隠しにつながりかねない懸念が示され、労働行政に対する追及が行われた。

忸怩たる思いの医師

◎歯科医のケース


労災で軽視されがちなのが歯科治療だ。通勤災害や、物が顔面に当たるなど災害で歯が折れたりすることがあるが、通常の医療と違って、労働基準監督署の中には治療の打ち切りをさせようとするケースがあるという。

大阪市内の歯科開業医の藤本さん(仮名)は、記者に対して次のように語った。

労働基準監督署の対応に怒っている。1985年~97年に4回労災事例を経験した。勤務中や通勤中に交通事故や荷物が落ちてきた。歯が折れる。それは、時に前歯が多い。しかも複数の歯が折れるケースがある。
保険のきかないセラミックでは10万円ぐらいかかる。こちらとしては、なんとか元の状態に直そうと努力する。すると、労基署は「そこまで、回復させる必要があるのか」と言ってくる。被災者本人にしてみれば、仕事で歯を折ったのだから、なるべく元の状態にしたいと思うのが当然ではないか。労基署の対応は、労災で金を出したくないというようにしか感じられなかった。
こちらが申請関係の書類を書いて出したら、労基署側が紛失したケースもあった。仕方なくもう1度書き直した。担当者が異動でころころ替わることもあった。最終的に銀行に振り込まれるまで、半年ということもあった。

◎整形外科医のケース

労災の当事者と最初に接触する人は多くの場合、医師だ。特に整形外科医は接触する機会が多い。大阪府内の開業医の山本博司医師(仮名)は「私の経験では、労災を起こした企業は、ほとんどの場合、健康保険扱いにしてしまう。特に、後遺症がなければ、治療が長引くことがなく、健康保険で、というのがほとんどだ」と証言する。いかなる労災事故であっても健康保険は使えない。しかし、企業側では、3割の自己負担分を出して被災者本人の口止めをするなど巧妙な手口が横行している。後遺症が残れば、治療が長引き企業側の責任者も次第に不明確になるとともに本人負担額が肥大化し、被災労働者とのトラブルが発生する可能性が高くなる。

労災保険には、労災を起こせば、企業の労災保険料が高くなり、起こさなければ保険料が低くなるメリット制がある。高低の度合いが、プラスマイナス30%が35%に引き上げられるなど、さらに差別化が進んだ。山本医師はこの影響があるとみて「なるべく労災保険を使わないようにする力が働くのではないか。例えば、ひ孫請けが労災を起こすと、中間の親方は元請けの保険料が高くなることを考慮して『あんたんとこ、ようけがするから、もういい』と言っているようだ」と指摘している。

山本医師はある時、医院を訪れた被災者の男性のことを思って、「あとあとのことも考えると労災扱いにした方がいいですよ」と勧めた。男性は労基署から労災認定され、治療費もただになった。ところが、再びその男性が医院を訪れ「(労災認定されたので)クビにされました。先生」と言ってきたことがあったという。
「こんなことがあると、次からは労災申請した方がいいとあまり強く言えなくなる。それは私に限つたことではない。とても根が深い問題だ」と山本医師は打ち明ける。

患者も最初は、本当の事故状況を言う。しかし、例えば、狭い天井で、仕方なく無帽で作業をしていて、頭を切ると、親方からは「お前が帽子をかぶらなかったからではないか」と過失を追及される。そうすると、労災にするのが面倒になり、医師にも本当のことを言わなくなってくる。労災保険は、本人の過失が原因でも支給対象になるのだが。
山本医師は、仕事中に交通事故にあうと、「おまえがよそ見をしているからだ」と不注意をなじられた例も知っている。

社会保険庁が労災保険扱いとなるべき年間6万7000件の労災事件が健康保険(政府管掌保険)扱いになっていることを発見したことについて山本医師は、次のように感想を語った。
「記録をつかんでいるのはほんの一部ではないか。というのは、健保に提出するレセプトには、日付を書く欄はあるが、時間を書く欄はない。だから、それで、業務中の事故と判断するのは難しい。社会保険庁の調査の網から漏れているのがどれくらいか検討がつかない」。

◎医者の目から見た労災隠し

医者が無理に労災申請を勧めると、その病院には次から来なくなる事例も見受けられるという。
大阪市内で2000年夏、官庁の建設の際、棚が落ちて作業員2人が1緒に落ちた。1人は骨折、もう1人はすりむきの傷だった。骨折の人は労災申請したが、もう1人は健保扱いにした。そんな時、「健保扱いはおかしい」と指摘すると、骨折の労働者も含めて来なくなってしまったという。
労働者のことを考えると、医者が労働基準監督署に「労災なのに健康保険扱いにされた」と、労災隠しを指摘する連絡をすることはまずありえないと言う。

近畿地方ではこんな例もあったという。2000年、製造業の機械の安全装置が十分ではなく、労働者が指を切断した。病院にかつぎ込まれた時、指はもう紫色で明らかに組織が死んでいるのに、同行した企業の労務担当者は「とにかく、いったんくっつけてくれ」と言う。医師が「医学的に無理だ」と言うのに、なおも食い下がった。それは要するに、「いったん指はくっついたが、だめだった」としたいらしい。いったん、指の切断事故があると、工場の操業が停止され、一切の生産活動が停止してしまうからだと言う。

山本医師は「どんなに注意を払おうと、10階建ての建物を建設していて事故ゼロ達成とか言うが、そんなこと、まずない。必ず、けがはあるものだ」と、これまでの経験を話した。
この医師は「障害が残るのは労災」としているが、本来は事業所側は、仮に障害が残らなくても労災保険の使用の有無にかかわらず労働基準監督署に届出する義務がある。
医師側にも忸怩たる思いはある。「付き添いの労務関係者が現れ、健保扱いで労災隠しをされると、こちらとしては腹立たしく、また、この人が何度も労災を隠すのやろな、と思う」と言う。

中には、社会保険庁の調査のように行政からの指摘をおそれて、健康保険にも労災保険扱いにもせず、全部自費治療にする人がいるという。そういう人や健保扱いにする人は必ず医院で領収書を請求するという。その領収書は親方が肩代わりするためのものだという。

近畿に住む労災問題に詳しい医師(60歳)は、医師の目から見た労災隠しの構造を次のように語った。

私の知人が産業医をしている会社では「救急車を呼ぶな」というのが常識。でも、それは特殊なことではなくて、いろいろな労働組合の人が言っていた。何でもかんでも救急車を呼ぶなと企業側が言うのだそうだ。
それでも産業医が会社にいるところでは、あまり労災を隠さないが、中には、大手のメーカーが元請けとして隠す。下請けに対し、「あそこでけがするんだったら、もう仕事に入らないでくれ」と言う。良識的な企業でも、本人了解で隠す場合がある。

ゼネコンは表に出ているのと違って、労災隠しは多数ある。元請け、下請けの構造が隠す。休業を必要とするのも、休業ではないとする。できるだけ社会保険で扱うようにするとかいう手法だ。
医者は、「労災にしますか」と聞かないのが普通だが、私は聞く。患者は労災の仕組みを知らない、知識がない、特に若い人が知らない。1番はっきりしているのは、会社の人が付いて来る場合。ホテル調理人がやけどや包丁の傷などで、係長が付き添って、労災にしないでくださいと言った場合があった。その件は、社会保険扱いにしてくださいと言う。
労災にするかどうかは、どうしても本人と企業の問題になってしまう。医療機関が決められるわけではない。労災にすると、診断書も高いので医療機関にはいい。本人が粘って労災にすればできるが、企業はできるだけ労働基準監督署が立ち入らないようにする。企業ができるだけ労災にしたくないのは、労基署からいろいろと調べられるからではないか。だから医療機関の意思が介在しにくい。通常、医師はけがを治すというのが仕事で、労災保険でも健康保険でもどちらでもいいと考えがちなのも事実だ。私は「どうしますか」と本人には聞くようにする。

あまり知られていないが、夏の暑い時期は熱中症の労災が多い。猛烈に暑く、息苦しい、手が動かなくなったりする。死亡する場合もある。そういう人は親方が付いて来て、隠す場合がある。道路工事の人もわりと熱中症になる。自分が申告して、親方が付き添う。点滴していると、やがて治る。それは、大工さんなんかが多い。

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