毎日新聞社大阪本社 労災隠し取材班/(2004.11.15)web版

“隠れ労災・58万件 過去10年、健康保険扱いで処理-社会保険庁調べ[2000.11.11]

仕事上の理由で負傷して治療したり休業した際、本来は労災保険の適用を申請すべきなのに、健康保険扱いになっていたケースが、過去10年間に約58万件あることが、社会保険庁の調べで分かった。健康保険で支払われた医療費総額は約207億円、労災なら患者本人が支払う必要がないのに自己負担していた治療費(健康保険の2割=当時)は約40億円に上る計算になる。同庁からの指摘を受けた患者は自己負担分の返還を受けることができるが、労災問題の専門家らは「実際の労災はもっと多い。労働者や事業主に労災手続きの徹底を図るべきだ」と訴えている。膨大な”労災隠し”の疑いが、数字で浮かび上がった。

全国の社会保険事務所では、医療機関への支払い後に回ってくる年間約3億枚の診療報酬明細書(レセプト)の中から、まず整形外科にかかったケースなどに着目する。さらに、平日に初診を受けていたり、頸椎損傷など労災の疑いのあるものをチェックする。社会保険事務所が患者本人に郵送で照会し、労災の事実が確認されると、まず医療機関から診療報酬を回収する。すると、医療機関は労働基準監督署に診療報酬を請求し、患者の申請で労働基準監督署から労災認定されると、患者は治療費の自己負担分の返還を労災保険から受ける。

こうした事例を社会保険庁が1990年度から調査したところ、毎年約6万件あり、過去10年で最高は約6万7000件に上った。

 労働省は原因を調査していないが、労働者本人が労災保険制度について知らないことのほか、仕事の受注資格に影響する無災害記録を無理に伸ばそうとする業者の存在、超過滞在の外国人労働者の発覚を恐れるーなどの理由で、事業主が労働基準監督署に労災を届けない例が多いためとみられる。

社会保険庁は「制度が周知徹底されていれば、こうしたことが毎年6万件も起きないのではないか」と話した。

労災保険を使わなかった場合、労働者は、労災による休業期間プラス30日間は解雇されないという身分保障がない、障害が残った場合は労災で補償される分を受け取れない-などの不利益をこうむる。

井上浩・全国労働安全衛生センター連絡会議議長(現・顧問)は、「労災事故を起こすと、元請け会社の入札資格が1定期間はく奪されたり、労災保険料が高くなることなどが労災隠しの背景にある。労働省は、実態をもっと調べて、行政指導をするべきだ」と話す。

■労災保険

労災保険は、すべての事業主に加入が義務づけられている。
業務上の理由や通勤中の負傷、病気などの場合に、労災保険から症状の程度に応じたさまざまな補償給付金が支払われる。
事業主は賃金総額の1定割合の保険料を国に納める。
事故にあった労働者は、事業主が証明した補償給付請求書を医療機関や労基署に提出する。
労災と認定されれば、療養補償給付や休業補償給付、障害補償給付などを受けることができる。

20001111隠れ労災58万件、過去10年健保扱いで処理 毎日新聞大阪本社

仕事にも事業所にも傷つけられ
結局泣くのは労働者  労働省「実態は不明」

ぎつしり積まれた健康保険のレセプト(診療報酬明細書)に、大量の労災が隠れていた。レセプトの中から社会保険庁が「労災扱いすべきだ」としたのは、10年間で58万件。だが、労働現場や医師からは「自宅でけがしたことにしてくれ、と会社に言われた」「労災を勧めると患者が姿を見せなくなった」など、労災隠しの横行を裏付ける証言が出る。労働省は「実態は分からない」と話すが、制度を知らずに仕事で傷ついた労働者は、泣き寝入りだ。

政府管掌健康保険(約2000万人加入)を扱う全国の社会保険事務所に来るレセプトは年間約3億枚。職員はこの中から、健康保険から支出されるべきではないケースを探し出す。労災事故に関係するものは外傷点検と呼ばれている。例えば、交通事故の被害者のレセプトの場合は、過失割合に応じて加害者の責任が問われるため、治療費の大半は健康保険からではなく、加害者、ひいては加害者が契約していた損害保険会社の自動車保険や自賠責保険から支払われることになる。こうしたケースと1緒に、本来は健康保険からではなく労災保険から支出されるべきケースを探し出す。

レセプト点検担当者は、けがなどをして、整形外科や救急指定病院にかかったケースをまず注意する。そして傷病名をみて、条件としては、初診で、平日で、時間外加算がされていないものを疑ってみる。なぜかというと、平日の昼間の時間帯であれば、普通は職務中の事故の可能性が高いからだ。あわせて交通事故も分かる。

実際の点検は、各都道府県の社会保険事務所の「レセプト点検事務センター」で行う。本人には、仕事中にしたのか、レセプトをもとに疑問のある場合に質問を送る。封筒に返信用のはがきを入れ、いつ、どこで、どういう状況で、けがをされたのか尋ねる。相手があるのか、勤務中かなどが項目に含まれている。

外傷点検のほかに、医療機関からの不正請求や誤った請求などもチェックする。こうしたチエックは「人海戦術による紙との格闘」(職員)になるという。不審なものを見つけては本人に照会し、初めて労災と分かる。回答の結果、職務中のけがや病気と分かると、医療機関に対し、レセプトの請求先が違うと知らせる。

だが、社会保険庁は「本格的に調査する人手もないし、本人が会社との関係悪化を恐れてうそを言えばどうしようもない」と言い、実際の労災はもっと多いとみられる。

実例を紹介しよう。大阪府内の建設会社に勤務する男性(37歳)。1999年夏、仕事で腰を痛め、健康保険で治療を受けた。しかし、腰痛が悪化して休職、「椎間板ヘルニア」と診断された。会社に労災申請の相談に行くと、会社幹部は「労災では元請けに迷惑がかかる。家でけがをしたことにしてくれ」と言い放った。

家族の勧めもあり、男性は会社を説得して労働基準監督署に労災申請し認定され、健康保険扱いで支払った自己負担分数万円は療養補償給付として戻り、休業補償として給料の8割(健康保険は6割)を手にした。男性は会社に職場復帰を申し出ているが、会社は「別の仕事を探したらどうや」と解雇をちらつかせる。男性は「会社側は最初から労災の手続きを取ろうとしなかった」と話す。

大阪府内の建設会社の元現場監督は「無事故記録を続けている時に、下請け労働者が事故でけがをすると『やってくれたね』とか言うと、たいがい労災にはならない」と明かす。労災を隠すために「救急車を呼ぶな」という”鉄則”もあるという。

労災問題に詳しい大阪の整形外科医は「患者のことを思って労災の適用を勧めると、数日たって『クビにされた』と言ってくることがある」と証言する。「健康保険扱いはおかしい。制度上、使用できませんよ」と指摘すると、それっきり姿を現さなくなる患者もいたという。

労働省は1991年に「いわゆる労災隠しの排除について」という通達を出したが、以後、特別の対策はなく「今は通達を徹底させるとしか言いようがない」(労働基準局)。同省が「労災隠し」と公式に認めているのは、労災の時に死傷病報告をしなかったために労働安全衛生法違反で摘発したケースだけだ。その数は年間約100件に過ぎない。2001年には過去最悪になったが、それも129件に過ぎなかった。

関係者の話を総合すると、労災隠しの疑いがあるケースについては、労働省側がやる気になって各地の労働基準監督署に指示をしたらきちんとした調査ができるはずだ。というのは、医療保険側から「これは請求先が違う」と、労災保険に回ってきたケースは、けがの発生から労災請求されるまでに、時間的なギャップが生じる。つまり、労災請求の遅れさえみれば、調査するべき対象は分かるはずだ。そこから、本人がけがをした経緯や、なぜ労災にせず健康保険扱いにしたか、事業所から労働基準監督署に死傷病報告が出ているかなどを丹念に調べていけば、労災隠しの実態が明確になるはずだ。しかし、労働省側は取材した時点で、そうした本格的な調査の可能性を指摘しても意欲を見せなかった。記者はその時、「なんらかの理由で、労災保険を出し惜しみしているのではないか。そのためには労災隠しも黙認している面があるのではないか」と疑いたくなった。もちろん1線の監督官の多くは、労災隠しなどの不正に対し、毅然として臨んでいると信じたいし、そういう何人かの監督官に出会った。しかし、労働省側の本庁で取材した感触は、そうした期待を裏切るものだったと言わざるをえなかった。

●個人の努力に限界、関係機関連携を

膨大な「隠れ労災」を生む第1の要因は、労働者に労災保険制度が十分伝わらず、使い慣れた健康保険を使ってしまうことだ。

第2に、事業主には「無事故記録」のノルマがあったり、労災事故で事業への入札資格を失ってしまうため、労災を隠したいという傾向がある。そのために、健康保険の自己負担分を肩代わりしたり、示談金を支払う場合もあるという。

第3に、医療機関が患者である労働者に労災申請を勧めても、労災申請したために患者が解雇されるといった例もある。このため、医師はやむを得ず健康保険扱いにしてしまう。

労働省の姿勢にも疑問はぬぐえない。社会保険庁の今回の「摘発」に対して、同省は本格的な追跡調査は「やったことがない」とこれまで説明してきた。下請けや孫請けといった弱い立場であればあるほど、労災が隠されやすい。個人の努力や1部の労災申請支援組織に任されるのではなく、関係機関が連携して真剣に対策を考えるべきだろう。

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