記者の目
まかり通る労災隠し
●被災者に「二重苦」強いる-あらゆる手段で防げ

大島秀利(特別報道部)

仕事上の事故が起こっても事業者は国(労働基準監督署)に届けず、被災労働者は労災保険を使えない。治療費を自己負担したうえ解雇されたり、最悪の場合は障害が残ったり、死に至るーこれを労災隠しという。言葉自体は以前から聞いていたが、日本中でまかり通っていることを、私たちは取材や読者の声で知った。実態にメスを入れるための本格的調査・対策はこれまでなかったと言っていい。「分かっていたけど、何もしない」では、労働行政の存在意義が問われると思う。

「本来は労災保険の適用を申請すべきなのに、健康保険で処理していたケースが社会保険庁の調査で多数ある」。取材のきっかけは労災相談スタッフからのこんな情報だった。
 社会保険庁は、健康保険で処理された年間約3億枚もの診療報酬明細書(レセプト)の中から労災事故が原因と疑われるものをチェックしている。その結果、労災保険扱いとすべきものが過去10年間に約58万件も見つかった。労災保険なら患者が支払う必要がない自己負担分(当時、治療費の2割)も、約40億円に達した。

労災事故が起これば、事業者は労働基準監督署に届け出ることが労働安全衛生法で義務づけられている。労災と認定されれば、被災労働者は労災保険が適用され、治療費負担を免れるほか、休業補償、解雇制限という身分保障、障害に応じた年金・1時金支給など健康保険にはない補償を受けられる。健康保険で処理すると、就労不能で無収入になるうえ、自己負担分の治療費負担という2重苦にあう。 社会保険庁の調査結果を旧労働省(現・厚生労働省)にぶつけた。答えは「大半は意図的な労災隠しではないのではないか」だった。「なぜそう言えるのか。58万件の追跡調査をしたのか」と重ねて聞くと全く答えられなかった。「労災の健康保険扱いは、労災隠しが多発している証拠」という非営利団体の労災相談スタッフの認識との落差は大きい。

こうした取材結果を記事にした日から、読者からの投書やEメールが届き始めた。その内容に、私は目を覚まされる思いがした。

「仕事で負傷したが、会社には労災にするなと言われた」
「事故ゼロの連続記録達成のために、労災隠しをやっている。そんなのは業界の常識だ。なぜ悪い」
「労災事故を隠すため、救急車を呼ばないのは鉄則だ」・・・。

約4カ月間での投書は、毎日新聞大阪本社だけで約200件に上る。私は隠す側に「労災事故が起これば隠すのは業界の常識。しかも隠し通せる」といった労働基準監督署をなめ切った態度があるのを感じた。

確かに「10年間58万件」のすべてが労災隠しとは私も思わない。しかし、寄せられた情報や取材結果を十分考慮すると、大半が労災隠しと疑わざるをえない。しかも、社会保険庁が見つけた件数はあくまでも書類で発覚した分だけの数字で、調査対象は政府管掌の健康保険に限られている。市町村が運営する国民健康保険など労災による事故や病気を対象としない他の保険制度を使った労災隠しの存在も指摘されている。実際の労災隠しは、膨大な数に上るだろう。

この国を支えてきた大きな柱の1つが、勤勉な労働力といわれてきた。ところが、労災隠しは文字通り、体を犠牲にしてまで企業に尽くした人を使い捨てにする卑劣な行為で、重大な人権問題だ。1生懸命働いた者は報われる。仕事でけがや病気をしても補償される。そういう信頼があってこそ、品質の高いサービスや商品が生まれるはずだ。

国は、その信頼関係の担保として事業者から、全給与の約1%に当たる保険料を強制徴収し、労災保険を運営している。それなのに、その信頼関係の土台を崩す労災隠しに対して寛容すぎたのではないか。

ここで労働行政の2つの問題を指摘したい。1つは「不作為」の問題だ。賃金を払って労働者を雇ったら、正社員だろうと、アルバイト・派遣労働者だろうと、労働者が労災にあえば労災保険が適用される。国籍を問わないし、いわゆる「不法」就労であっても適用される。労働者を雇って事業の開始と同時に、労災保険が成立する。仮に、事業者が保険料を支払っていなくても、被災労働者は労災保険の支給を受けられ、後から事業者が保険料を取られる仕組みだ。もちろん、こうしたことは旧労働省をはじめとする関係者には常識なのだろうが、そういったことが個々の労働者にあまりにも知らされていない。正直言って、私もこの取材を始めるまでは、私自身がいざという時に労災保険の制度に守られる立場でありながら、まったく制度を知らなかった。

もう1つは、旧労働省が事業者から受け取った労災保険料をどのように使い、運用しているのか、ほとんど明らかにしない点だ。労災隠しに甘かったり、保険制度そのものを十分に宣伝しないのは、労災保険料で積み立てたお金を何らかの理由で手をつけたくないからではないか、あるいは外から手をつけられたくないからではないか、との疑念すら抱かせる。旧総務庁行政監察局も「厚生・国民年金財政と比較して、労災保険は、基本的事項が公表されていない」と指摘している。

厚生労働省所管の財団法人ケーエスデー中小企業経営者福祉事業団(KSD)をめぐる汚職事件が取材中に起きた。だからこそ、労災保険財政の詳細を分かりやすい形で公開すべきだ。

省庁再編で厚生労働省が誕生したのを機会に一つ提案したい。

健康保険証の様式を改定して、労災保険制度の概要や請求方法を分かりやすく説明する項目を設けたらどうか。そこに、パート労働者や派遣労働者らも労災保険の適用対象になることや、労災隠しは罰せられることを表記するのだ。

被災労働者の意思が圧殺されて、労災が隠されるような事態は、あらゆる手段を講じて防がなければならない。

労災保険の加入や申請手続きを説明するパンフレット。多くの種類があるが、労災隠しはまん延している。
20010227記者の目 まかり通る労災かくしー被災者に二重苦強いる 大島秀利 毎日新聞社大阪本社

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