胆管がん事件の背景と意味・久永直見/胆管がんシンポジウム-報告2 2012年12月16日大阪

胆管がん事件の背景と意味・久永直見

愛知教育大学・保健環境センター

1. はじめに

印刷胆管がん事件の背景としては、第1には、発端となった印刷所の安全衛生の状況、第2には、日本の印刷業における溶剤代替と職業性健康障害の繰り返し、第3には、オゾン層破壊性物質代替品による健康障害の相次ぐ発生を考えるべきであろう。

この報告の目的は、他の報告者が論ずるであろう点との重複を減らすように心掛けつつ、(1)背景の第2と第3、(2)そこから浮かび上がる胆管がん事件の意味、すなわち、この事件が私たちに示したこと、とりわけ、この事件に続く新たな健康障害の発生のおそれ、ならびに(3)今後の対策について述べることである。

2. 印刷業における溶剤代替と職業性健康障害の繰り返し

日本の印刷業では、昔から、有機溶剤による健康障害の発生が繰り返されてきた。印刷業における有機溶剤による健康障害と職場調査等の報告を、筆者が集めた文献資料の範囲で、発表年順に並べると表1のようになる。未収集資料が多く、漏れた情報が多いであろうが、それでも表1からは、次のような点を読み取れる。

表1 調査研究報告にみる印刷業における有害物取り扱いと健康障害

第1は、印刷業には、戦後、ベンゼンによる造血器障害、n-ヘキサンによる多発神経炎、そして今回のジクロロメタンと1,2ジクロロプロパンに曝露された作業者の胆管がんへと続く、有機溶剤による健康障害発生の流れがあることである。

第2は、多くの有機溶剤が使われつつ、徐々に代替が進んできたことである。
まず、毒性の強いベンゼンが、相対的に弱毒性とみられたトルエン、n-ヘキサン、次いで1,1,1-トリクロロエタン、フロロカーボン、フロロクロロカーボン等に替えられた。しかし、n-ヘキサンの強い末梢神経毒性、1,1,1-トリクロロエタン、フロロカーボン、フロロクロロカーボンのオゾン層破壊性の判明等のため、ジクロロメタンに、さらには1,2-ジクロロプロパンが用いられるようになったという流れが推測される。田代らの報告(文献11)でみると、有機溶剤中毒予防規則が適用されるジクロロメタンを53%含む製品から、同規則が適用されない成分が主で、ジクロロメタンは5%の製品で代替している。

第3は、田代らが紹介したオフセット印刷で使われていた溶剤製品の成分表示が中身と違っていたという例からみて、労働者だけでなく事業主も知らぬ間に、職場で毒性の強い溶剤が使われる恐れもあることである。使用製品に表示された溶剤の毒性と労働者の健康障害の間にギャップがあるような場合、成分の不正表示の可能性にも留意が必要であろう。

第4は、田代らの報告した事業所は、従業員380名と規模が大きく、そこでの気中ジクロロメタン濃度(245-307ppm)は、今回の胆管がん多発事業所で労働安全衛生総合研究所が実施した模擬拭き取り作業時のジクロロメタンの濃度(作業者A 229.9-364.2ppm、作業者B 131.3-246.2ppm)に近いことである。これは、中小事業所だけでなく、比較的大規模の事業所でも、高濃度溶剤曝露がありうることを示唆する。

3. オゾン層破壊性物質代替品による健康障害の続発

オゾン層破壊性物質の代替品の導入により国内外で発生した健康障害を、印刷業に限らずにまとめると表2のようになる。オゾン層保護に役立つ、地球に優しい化学物質の中には、労働者にはかなり怖い物質が少なくなかったのである。

表2 オゾン層破壊物質代替品による健康障害

印刷胆管がんは、この一連の流れの中に位置づけられるべきであろう。代替品には、種種の物質があり、発生した健康障害は、皮膚・粘膜、肝、腎、造血器、神経系、生殖器、胆管がんと幅広い。表2に未収載の情報も多いと思われ、それらを網羅すれば、健康障害の幅はさらに広がるであろう。今回明るみに出た職場の労働者における生殖障害、神経障害等の発生も懸念される。

4. 胆管がん事件の意味

日本には、戦前からの有機溶剤中毒研究の歴史があり、世界初の重要な有害性の発見がいくつもあった(表3)。これは、日本における有機溶剤による健康障害の多発の歴史の反映でもあろう。

表3 世界で初めて、日本において発見された有機溶剤の有害性

しかし、近年は、有害物による健康障害事例の学会報告数は、石綿を除くと減ってきている。この背景としては、職場改善が一定度進んだことや、元々不足していた日本の労働衛生マンパワーの多くが、過重労働、メンタルヘルス対策に費やされ、有害物対策が手薄になり、問題が見えにくくなっていたことが挙げられよう。
こうしたなかで、今回の胆管がん事件は、職場の有害物問題への対応をゆるがせにできないこと、日本の労働安全衛生には重大なぜい弱性があること等を如実に示した。
前項で述べたオゾン層破壊性物質代替品による健康障害の相次ぐ発生等からみて、胆管がん事件で終わりではなく、新たな問題の発生を迎える可能性が高いとみるべきではなかろうか。

5. 今後の対策

胆管がん患者・家族等への支援から他の化学物質による健康障害の予防まで、幅広い取り組みが今後必要である。

片岡は、印刷胆管がんの多発に至った理由として、当該企業における換気不良の室内での多量の有機溶剤の使用、産業医選任、作業環境測定、安全衛生教育の未実施等の問題だけでなく、労働基準監督の不徹底、有機溶剤中毒予防規則の対象物質の少なさ、中小企業における安全衛生の遅れ、国の化学物質対策の弱点などを指摘している(文献20※)。
※職業性胆管がん事件(その1)https://joshrc.net/archives/3349 ~(その6) https://joshrc.net/archives/3471

日本学術会議は、2011年に、職場の危険有害環境を改善するための方策について、「労働・雇用と安全衛生に関わるシステムの再構築を」と題した提言をしている。そこでは、労災を未然に防ぐ一次予防に力点を置いた体系的予防システムの構築が急務で、①法規遵守と現場の自主的活動の推進、②訓練・教育、③改善事例の収集・普及、④人と機械等を一システムと考えて行うリスク評価、⑤労働者の知る権利の法制化、⑥休業3日以内も含めた労災発生状況の分析、⑦作業環境測定や特殊健康診断の対象物質の拡大、⑧作業環境測定結果報告の義務化、⑨国が行う安全衛生関係調査の対象に9人以下の小規模事業場と自営業を含める、⑩メーカーに機器や化学製品等の安全使用のための情報提供を義務付けること等が挙げられている。

こうした指摘や提言に応じた改善を実現するために、私たち自身も積極的に関与してゆくことが重要であるが、筆者は、これらに加えて、学校における安全衛生教育を強化し、卒後の安全健康な生活・労働とユーザーに安全健康な製品づくりにつなぐことが極めて重要と考える(文献21)。印刷胆管がんに20歳代で罹患された方がいることからみても、安全衛生は就職後という考えは妥当ではなく、学校から本格的に始めるべきと考える。

最後に、胆管がん対策の前進と勤労者の安全と健康のための共同の拡大に寄与するであろう本シンポジウムに参加させていただいたことに深く感謝したい。

文献

  1. 南浦邦知、労働科学、28:690-715, 1952
  2. 中島章ら、日本血液学会誌、15:266, 1952
  3. 堀内一弥ら.労働科学、34:215-216, 1958
  4. 原一郎、産業医学、3:231-236, 1961
  5. 福島幸治ら、日本臨床、19:1193-1198, 1961
  6. 野見山一生ら、産業医学、6:685-692, 1964
  7. 堀内一弥ら、空気清浄、5(3)、38, 1967
  8. 山田信也、産業医学、9:651-659, 1967
  9. 原一郎ら、大阪府立公衛研報告・労働衛生編、第6号:1-9, 1968
  10. 松永一郎ら、産業医学、28:310, 1986
  11. 熊谷信二ら、産業医学、33:124-125, 1991
  12. 田代拓ら、産業医学ジャーナル、6:25-29, 1996
  13. 田代拓ら、産医大誌、20:107, 1998
  14. 米原澄子ら、産衛誌、39:S169, 1997
  15. 吉田勉ら、産業医学ジャーナル、20:35-38, 1997
  16. 米原澄子ら、産衛誌、40:S509, 1998
  17. 寺田央ら、リハビリテーション医学、40:増刊s413, 2003
  18. 吉永久生ら、産衛誌、47:S543, 2005
  19. 熊谷信二ら、産衛誌、54:S297, 2012
  20. 片岡明彦、安全センター情報、398号:2-24, 2012
  21. 久永直見ら、労働安全衛生広報、 980号, 14-19, 2010

安全センター情報2013年4月号