悪性リンパ腫労災認定を求める 厚生生労働省と交渉、署名提出

川本浩之(神奈川労災職業病センター)

2008年3月6日、「喜友名正さんの労災認定を支援する会」主催で、厚生労働省との交渉が行われた。沖縄から喜友名さんのお連れ合いの末子さんと、代理人の金高弁護士も参加し、直接、厚生労働省に早期認定を求めた。センター会員の皆さんにもご協力いただいた署名も提出した。
交渉に先立ち、参議院議員会館で院内集会が開催された。亡き夫について、末子さんは、次のように訴えた。

国はきちんと考えて

「夫は25年間、大手家電メーカーで技術社員として働いていましたが、長期勤続者の早期退職制度があり、退職を選びました。ちょうどバブル崩壊の後で、仕事はなかなか見つかりませんでした。1997年8月に原発の検査業務を行なう会社に入社しました。各地の原発に出かけて、放射能漏れがないかなどを調べる非破壊検査の仕事でした。でも、一定量の放射線に被ばくすると、雇用契約が切れ、収入は保障されません。しばらくすると、また会社から声がかかって、原発に出かけます。そんな生活が、6年間続きました。風邪ひとつひかず元気そのものだった夫が、2004年1月に体調を崩して入院しました。何か月も原因がわからず、5月になってようやく、琉球大学附属病院で『悪性リンパ腫』と診断されました。

翌年3月に53歳で亡くなりました。私は病院で事務員をしていますので、放射線の危険性は、ある程度知っていました。だから夫の仕事には反対でした。でも夫は、『国がきちんと管理しているから大丈夫だ』と言っていました。私と口論になって、なおさら意地になったのかもしれません。病院では、元気になったら実家
の島で農業をしたいとも言っていました。

36年間の結婚生活でした。夫がいなくなって本当に辛いです。こんな苦しい思いをさせてほしくないです。国はきちんと考えてほしいです。」

喜友名末子さん

グループ100

正さんの累積被ばく線量は、99.67シーベルトで、統計資料のある2001年度から2003年度の3年間で見ると、被ばく線量の高い労働者のグループ100人の中に入る。まさに、被ばく要員であり、原発の放射線管理が、このような不安定雇用労働者の存在が前提になって行なわれていること自体、大変重大な問題である。そうしたことも含めて、運動を継続していきたい。

喜友名労災とは

喜友名正さんは、1997年9月から6年4か月間、主に定検中の原子力発電所や六ヶ所再処理施設で働き、多量の放射線を浴びた。そして体調不良による退職後、血液のガンである「悪性リンパ腫」に襲われ、2005年3月に53歳で亡くなった。同年10月に遺族が労災申請したが、淀川労基署はこれを却下。遺族はこれを不服として審査請求を行った。労基署の調査があまりにずさんだったため、審査官ではなく、現在、厚生労働省が専門家を集めて検討中である。
全国から寄せられた「喜友名さんの悪性リンパ腫を労災認定せよ」の署名は、2008年4月現在、6万筆を超えている。

安全センター情報2008年6月号