ふくしまの10年・イチエフあの時 事故発生当初編(15回連載:片山夏子・山川剛史記者)<原発のない国へ>東京新聞

福島第一原発事故報道で定評のある東京新聞で「ふくしまの10年・イチエフあの時 事故発生当初編」が連載された。当時の現場作業員のおかれていた状況の貴重な報告だ。

担当は、片山夏子・山川剛史記者。

片山夏子記者は事故後長く被曝労働の現場取材を続けており、「 ふくしま原発作業員日誌 イチエフの真実、9年間の記録」(朝日新聞出版)で 第42回「講談社 本田靖春ノンフィクション賞」 (2020年)を受賞している。

講談社本田靖春ノンフィクション賞を東京新聞記者・片山夏子著『ふくしま原発作業員日誌 イチエフの真実、9年間の記録』が受賞!

福島第1原発事故の「グラウンド・ゼロ」を振り返る。

東京新聞・原発のない国へ<ふくしまの10年・イチエフあの時 事故発生当初編>

長期連載「ふくしまの10年」の新シリーズ「イチエフあの時 事故発生当初編」(全15回)を始めます。作業員らが「イチエフ」の愛称で呼んできた東京電力福島第一原発は、東日本大震災で冷却機能を失い、次々と建屋で水素爆発が起き、もろくも最悪レベルの事故を起こしました。事故現場どんな状況だったのか、当時の写真や取材記録、作業員らの証言を基に、震災当時から約1カ月間の様子を振り返ります。

東京新聞 2020年9月20日

(1)巨大津波襲来 2020年9月22日

防潮堤を破壊し、福島第一原発を襲う大津波=東京電力提供

2011年3月11日、東日本大震災の巨大な揺れで、運転中だった東京電力福島第一原発1〜3号機は自動的に緊急停止した。だが、約40分後の午後3時27分ごろから数度の津波に襲われた。

むき出しの海水ポンプは破壊。崖を崩した海抜10メートルの敷地にある1〜4号機の建屋は最大5.5メートルまで浸水し、地下の電源盤や非常用発電機は水没して壊滅。最悪レベルの原発事故につながった。

写真は5号機近くの高台からの撮影。津波は、「八」の字に延びた防潮堤を破壊しながら乗り越え、護岸近くの重油タンクや5、6号機用の貯水タンクをのみ込んだ。

地震発生時、港湾内ではタンカーから重油タンクへの給油中。タンカーは沖合へ避難し難を逃れたが、タンクは引き波でさらわれた。

当初からツイッターで原発の様子を発信してきたベテラン作業員のハッピーさんは、地震発生時は原子炉建屋にいた。ゴゴーっという地響きがして大きな揺れが来た。「建屋内に50人以上がいた。もし大津波が近づいていると伝えられていたら、冷静に避難できただろうかと今は思う」 事務所で点呼中に突然、西から突風が吹き、空から雪が降ってきた。「津波風だ!と誰かが叫んだ。この時、津波がイチエフを襲ったのかもしれない」 (片山夏子、山川剛史が担当します)

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(1)巨大津波襲来 東京新聞 2020年9月22日

(2)道ふさぐ巨大重油タンク 2020年9月23日


津波で流され、道をふさいだ重油タンク=東京電力提供

東京電力福島第一原発を襲った津波は、護岸近くに置かれた重油タンクも襲った。約二百メートル山側の1号機原子炉建屋脇まで押し流した。直径約12メートル、高さ9メートルもある大きなタンクで、高台から海側敷地に抜ける道を完全にふさいでしまった。

「こんな大きなタンクが津波に流されるなんて…」。大震災当夜、仲間と車で敷地内を回ったベテラン作業員のハッピーさんは、その光景をにわかに信じられなかった。

回り道をして5、6号機の方に向かうと、今度は倒れた送電線の鉄塔が道路をふさいでいた。別の道路では津波で押しつぶされた何台もの車が行く手を阻んでいた。衝撃の連続だった。

流された重油タンクがふさいだ道は、1〜4号機の海側敷地に出る主要ルート。タンクを撤去しようにも大きなクレーンが必須で、原子炉冷却など緊急対応すべき難問は山積していた。撤去は、現場の状況がある程度落ち着いた六月末になってからだった。

重油タンクや車両、がれきがあちこちで道をふさいでいる。工具や資材を運ぶにも車での移動は難しく、人力での作業が続いた。

建屋内への出入りも困難を伴った。タービン建屋がある海側からはがれきが邪魔で入るのが難しく、やむを得ず高線量の山側から入っての作業が続いた。

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(2)道ふさぐ巨大重油タンク 東京新聞 2020年9月23日

(3)あちこちで地割れ、崩落 2020年9月24日 


地震により各所で路面の割れや崩落が起きた=東京電力提供

東京電力福島第一原発(イチエフ)事故の原因は「想定外」の大津波によるもので、地震によるものではなかったとされる。しかし決して地震の被害は小さくなかった。

写真の地割れや崩落は、敷地の真ん中辺りの谷の周辺。海側道路では地割れや段差が発生し、斜面が崩落して道がふさがれた地点もあった。 余震が続く中、作業員は免震重要棟を拠点に復旧工事に出掛けた。「24時間、指示があれば現場に行き、常に緊張状態だった。敷地内の至る所に地震や津波の影響が見られ、資機材を運ぶ際にも、まずは障害物を撤去するなどし、現場までの道を確保しなくてはならなかった」とベテラン作業員のハッピーさん(通称)は言う。

5、6号機では、地滑りで送電線の鉄塔が倒壊し、外部電源が断たれた。倒壊した鉄塔は、崖を崩して各号機の敷地を造成した際の残土を沢に捨てた通称「土捨て場」近くにあった。1、2号機につながる受電施設も損傷し、早期の外部電源復旧を難しくさせた。このほか原発で使う純水を貯蔵するタンクなどが強い揺れでゆがみ、配管から漏水するなどの被害が出た。

「建屋内の被害も甚大だったが、それが地震や津波のせいか、爆発のせいか分からなかった。十年たとうとしている今も、現場検証が進んでいないのには怒りを覚える」

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(3)あちこちで地割れ、崩落 東京新聞 2020年9月24日 

(4)体の汚染 確認せず避難 2020年9月25日


地震で天井パネルが落ちるなどした事務本館=東京電力提供

東日本大震災の大きな揺れが東京電力福島第一原発(イチエフ)を襲った時、所内では東電社員約750人、下請け企業の作業員約5600人の計約6350人が働いていた。

高台にある事務本館では天井パネルが落下し、多くの棚が倒れた。机の下に隠れて机ごと動かされ、閉じ込められた人もいた。

当時の吉田昌郎(まさお)所長(故人)は、事務本館の西側にある免震重要棟に避難し、グループごとに人数を確認するよう指示した。この棟は、免震構造で非常用発電機もあり、長く最前線基地として使われた。

4〜6号機は定期点検中で、原子炉周辺の放射線管理区域では約2400人が作業をしていた。同区域を出るには、汚染検査を受ける必要があるが、ゲートを開けて避難を最優先した。「警備員もいなかった。身体汚染の有無も確認せず退出するしかなかった。地震で物が散乱した中、防護服を脱ぎ、自分の服に着替えるのも一苦労だった」。ベテラン作業員のハッピーさん(通称)は思い出す。

避難はうまく進んだが、ゲート近くの建屋に保管されていた約5000個の個人線量計は、津波で水没し使用不能に。当初の作業員の被ばく線量が十分把握できない事態につながった。

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(4)体の汚染 確認せず避難 東京新聞 2020年9月25日

(5)無防備だった地下設備 2020年9月26日


大津波で建屋地下は浸水。電源を失う原因となった=東京電力提供

東京電力福島第一原発(イチエフ)を襲った大津波は、やすやすと防潮堤を乗り越え、海抜約10メートルの敷地も超え、1〜4号機の建屋は最大5.5メートルの高さまで浸水した。

海水は出入り口や吸気口などから建屋に入り、地下階の電源盤や非常用ディーゼル発電機は水没。地上にあった6号機の空冷式発電機一基は生き残ったが、1〜4号機は遠く離れ、各所に電力を送る電源盤が使えなくては、手の打ちようがなかった。

原子炉周辺は海抜約40メートルの高台を約30メートル削って敷地造成をした。軟弱な表層を削る必要があり、海水ポンプとの高低差を小さくし、船からの資材搬入の利便性などを考えての判断だった。敷地の高さを超える大津波は来ないとの甘い想定もあった。

1991年には1号機で海水配管の亀裂で地下階の非常用発電機が水没するトラブルがあり、99年にはフランスの原発で河川氾濫で地下階が浸水し、非常用冷却装置などが機能喪失した。東電がこれらの教訓に学び対応していれば、福島第一の状況は大きく異なっていた可能性が高い。

ベテラン作業員のハッピーさん(通称)は「水没トラブル後も、対策されないまま放置されていた。安全対策工事も山積していたが、各号機の稼働率やコストが優先され、安全は二の次になっていたのではないか」と振り返った。

◆次回は29日掲載予定。
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5)無防備だった地下設備 東京新聞 2020年9月26日

(6)計器、弁…もろい電気仕掛け 2020年9月29日


計器や弁の操作用に、かき集めたバッテリーで対応する作業員=東京電力提供

建屋地下が水没し、ほぼ全ての電源を失った東京電力福島第一原発(イチエフ)では、原子炉の水位や冷却装置などを操作するどころか、状況もほとんど分からなくなった。「操作もできず、手も足も出ないのに、われわれがここにいる意味があるのか」。東電の事故調査報告書には、暗い中央制御室で、運転員同士で言い合ったとの証言が記されている。
例えば、2号機で消防車を使って外部から注水できるよう配管構成を変える作業をした場面。通常なら制御室のスイッチ操作で、直径60センチの配管の大きな弁も24秒で開閉できる。だが事故現場では、暗闇の中、防護服を着てはしご上の作業となり、十人がかりで1時間かかった。


磁力や空気圧で作動する弁の場合には、電力やコンプレッサーで高圧の空気を送る必要がある。計器類の多くも電力を必要とした。運転員らは車などのバッテリーをかき集め、対応する必要があった。
事故発生直後、部下とケーブル敷設に当たった作業員は、「とにかく電源を復旧させようと必死だった。放射線量も分からない暗闇の中、重い電源ケーブルを8の字に巻いて運んだ。夕方から朝までぶっ通しの作業が続いた」と振り返った。昼間は消防隊や自衛隊などが冷却水の放水をするため、原子炉建屋周辺の作業は難しい夜間が多かった。

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(6)計器、弁…もろい電気仕掛け 東京新聞 2020年9月29日

(7)震災初日に炉心溶融 2020年9月30日


水素爆発により散乱したがれき。左が1号機、右は2号機=東京電力提供

東京電力福島第一原発(イチエフ)1号機は大津波に襲われた3月11日に、炉心が溶け始めた。

電力を失い、中央制御室ではほとんど事態が把握できない。原子炉の冷却装置の一つは電源が水没し起動不能。消防車で外部から注水しようとするが、炉内の圧力が上昇して水が入らない。唯一残されたのが「イソコン」と呼ばれる冷却装置だったが、起動しては止まる不安定な状況。少なくとも午後9時半までの3時間、炉心への注水は完全に止まっていた。

原子炉建屋の放射線量が高いとの一報を受け、午後11時、保安班が調べると内部は毎時300ミリシーベルトと推定された。人が近づける限界は毎時100ミリシーベルトが目安。立ち入りは極めて厳しい状況だった。

翌朝、格納容器の圧力を下げるベント(排気)をするため弁を開けようと運転員が建屋地下に向かったが、1000ミリシーベルトまで測れる線量計が振り切れ、引き返した。別の弁を開けに向かった。

「暗闇で放射線量も分からない中、運転員が向かった。無事でありますように、成功してほしいと祈るような気持ちでいた」(当時の福島第一の広報担当・角田桂一さん)

ベントには成功したが、各所から漏れた水素ガスが建屋にたまっていた。午後3時36分、予想外の水素爆発で建屋上部が吹き飛んだ。

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(7)震災初日に炉心溶融 東京新聞 2020年9月30日

(8)複数炉 連鎖するリスク 2020年10月1日


水素爆発が起きるたび、現場は注水ラインの再構築を迫られた=東京電力提供

崖を崩して造成した狭い敷地に東京電力福島第一原発(イチエフ)1〜4号機は並ぶ。効率はいいかもしれないが、事故時は危機が連鎖する複数炉の問題が表面化した。

3月12日午後、予想していなかった1号機の水素爆発で、せっかく完成しかけていた消防車3台を直列につないでの海水注入のホースが吹き飛んだ。電源車から電力を供給すべく、人力で重いケーブルを敷設する作業も進んでいたが、これも損傷した。

一時退避による作業中断、がれきの撤去、作業のやり直しで貴重な時間が失われた。 14日には3号機でも水素爆発が起き、2号機の作業に深刻な影響を与えた。

炉心冷却用にほぼ準備が終わった海水注入のホースや消防車が損傷。建屋内では、注水に向け格納容器の圧力を逃す準備が進められていたが、爆発の衝撃で排気(ベント)配管の弁の回路が壊れ、弁が閉じてしまった。代替策を講じる間に、2号機の状況は急速に悪化した。

「3号機が吹っ飛んだ」との一報を受け、テレビを見た当時の東電福島事業所の小山広太副所長はがくぜんとした。「あんな分厚い原子炉建屋が…」。絶対安全と信じていたものが崩れた瞬間だった。その日夕方には、今度は2号機の核燃料が露出し始めた。「大きな津波が次々押し寄せてくるような感じだった」

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(8)複数炉 連鎖するリスク 東京新聞 2020年10月1日

(9)作業員 終わらぬ闘い 2020年10月2日


過熱した核燃料の熱でもうもうと水蒸気を上げる3号機=東京電力提供

「ここで死ぬのか」。2011年3月14日、東京電力福島第一原発(イチエフ)3号機が水素爆発した時、建屋に入ったばかりの作業員ハッピーさん(通称)は感じた。下から突き上げるような衝撃とともにすさまじい地響きがし、思わず尻もちをついた。天井からはがれきがドカドカ落ちてきた。

外に出ると黒煙が上っていた。がれきが散乱する中、必死で走り免震重要棟へ。白い防護服が血に染まった人や、粉じんで全身真っ黒になった人。戦場のようだった。その後、吉田昌郎(まさお)所長は「今までありがとうございました」と放送で呼びかけた。必要最低限の東電社員を残し、社外の作業員を退避させるためだった。ハッピーさんらは、いったん原発を離れた。

松林の中、整然と建屋が並んでいたイチエフは見る影もなかった。1、3、4号機は水素爆発で無残な姿となり水蒸気が上っていた。あちこちに割れたコンクリートや曲がった鉄骨が散乱。2号機は格納容器の破裂という最悪の事態は避けられたが、状況は刻々と悪化していた。少し事態が落ち着いた段階で、作業員は次々と現場に戻り、外部電源の復旧やがれき撤去などに当たった。さらには、注入した冷却水が高濃度汚染水となって建屋地下にたまっているのが見つかる。新たな闘いの始まりだった。

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(9)作業員 終わらぬ闘い 東京新聞 2020年10月2日

(10)忘れられたプール対応 2020年10月3日


4号機の使用済み核燃料プールに、長いアームで注水するコンクリート圧送車=東京電力提供

地上約30メートルの建屋上部にあるプール。まだ熱を発し続ける多数の使用済み核燃料があり、冷却が途切れて水温は上昇。湯気が上がり始めていた。特に東京電力福島第一原発(イチエフ)4号機には、定期点検で取り出して間もない熱い548体を含め1535体の使用済み核燃料があった。

暴走する原子炉への対応に追われ、プールのリスクは忘れられがちだった。東電のテレビ会議を見ても、何度も話題には上りながら、原子炉の急報が入ってプールのことは後回しになっていた。

実質的な対応が始まったのは、事故発生5日後の3月16日だった。自衛隊ヘリが海水を投下し、高圧放水車が地上から放水した。しかし、当時の吉田昌郎(まさお)所長(故人)は「セミの小便みたい」と評した。水量が少なすぎた。

危機を救ったのは、折り畳み式の長いアームをもつコンクリート圧送車。筒先をプール直上に向け連続注水が可能となった。「これはいい」と吉田所長は喜び、次々と圧送車が投入されていった。

この方式を提案し、導入に奔走したのは、ドイツの圧送車製造会社の日本法人社長だった出口秀夫さん。「原子炉の注水にはもっとすごい装備が出てくると思っていたよ。でもヘリや放水車とか。こりゃだめだと。あきらめず提案し続けてよかった」

◆次回は6日掲載予定。

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(10)忘れられたプール対応 東京新聞 2020年10月3日

(11)高線量 過酷な収束作業 2020年10月6日


高線量のがれきが散乱し、危険を知らせる表示=東京電力提供

東京電力福島第一原発(イチエフ)では1、3号機原子炉建屋の水素爆発により、所内のいたるところに高線量のコンクリートのがれきや金属片などが転がっていた。

作業員向けに作製された2011年当時のサーベイマップを見ると、各所に高線量の地点や危険な地点が記され、非常に過酷な現場だったことがよく分かる。 1〜4号機周りの山側敷地では、三月下旬で毎時3〜130ミリシーベルトあり、放射性ヨウ素など大幅に減った六月でも0.7〜50ミリシーベルトあった。近づくのも危険な100ミリシーベルト超の放射線を発するがれきが、あちこちに転がっていた。

七月に現場に入った重機オペレーターの男性は「高線量がれきには赤のペンキで『×100(100ミリシーベルト)』『×200』などと書かれていた。重機で取り切れないがれきをやべぇなぁと思いながら、手作業で片付けた」と語る。

建屋地下に大量にたまった超高濃度汚染水の移送が始まると、汚染水が流れる配管も放射線源となった。上に鉛マットを敷いて線量を下げ、作業員らは走って通り抜けた。

七月末になると、格納容器の破裂を防ぐベント(排気)で使った1、2号機の排気筒の根元付近の配管で1万ミリシーベルト超が測定された。膨大な放射性物質がたまっており、十年近くたった現在も事故収束作業を妨げている。

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(11)高線量 過酷な収束作業 東京新聞 2020年10月6日

(12)愛称で呼ばれた特殊車両 2020年10月7日


放射能を含む粉じんが舞わないよう薬剤を散布する作業車。「かたつむり」と呼ばれた=東京電力提供

東京電力福島第一原発(イチエフ)事故の発生当初、さまざまな特殊車両が事故収束作業の最前線で活躍した。その多くは、作業員から動物の愛称で呼ばれていた。

代表的なのが、原子炉建屋の最上階にあり、冷却機能を失った使用済み核燃料プールへの注水に使ったコンクリート圧送車。折り畳んだアームを伸ばすと優に五十メートルを超え、楽々とプールに直接水を落とせた。その実力に、作業員は「キリン」と呼び始めた。次々と投入される圧送車に「大キリン」「ゾウさん」「シマウマ」「マンモス」の名前が付けられた。「ゾウさん1号」は現在も万が一の事態に備えて整備が続けられ、敷地内で待機している。

このほか、建屋やのり面に付着した放射性物質が飛び散らないよう、粘着性のある緑色の薬剤を放水銃からまいた重機は「かたつむり」と呼ばれた。小型の米国製ブルドーザーは汚染された重いがれきの撤去などに活躍し、「ボブキャット」と呼ばれた。

原子炉格納容器内の調査で使うロボットにも、その姿から「サソリ」などの愛称がつけられた。長年原発で働く作業員は「他にも太郎とか小太郎とかね。次々壊れるから、名前をつけるのも大変」と笑う。厳しい環境下でも、現場には冗談や笑い声が飛び交う。

「そりゃ過酷な作業もあるけど、みんな明るいよ」

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(12)愛称で呼ばれた特殊車両  東京新聞 2020年10月7日

(13)2カ月劣悪な寝食環境 2020年10月8日


作業員の食事や休憩場所がある程度整ったのは事故発生の約2カ月後=東京電力提供

被ばくのリスクと闘い、暴走する東京電力福島第一原発(イチエフ)に立ち向かった作業員たちの環境は、特に2011年3〜4月の2カ月は劣悪な状況にあった。

食事は一日二回。内容も朝食は非常用ビスケットや野菜ジュース、夕飯はパックご飯とサバなどの缶詰だけ。一日に使える水は、飲料用や体を拭く分も合わせて、ペットボトルの1.5リットルだけだった。寝る場所も免震重要棟の会議室や廊下で、毛布も足りなかった。作業員らは24時間体制で危機対応をする合間に仮眠を取った。

「みんなひげが伸び、着の身着のままで汚れて汗臭く、疲れ切っていた。野戦病院のようだった」。東電社員の一人はこう振り返った。汚染がつかないように同僚とバリカンで髪を刈り合い、げっそり頬がこけた作業員らもいた。

作業員らの窮状は、保安検査官事務所の横田一磨検査官が3月28日の会見で明かしたことで広く知られることとなった。

ようやく寝食の環境が整えられ始め、10キロほど南の福島第二原発の体育館に畳が敷き詰められ、マットレスや寝袋で眠れるようになった。免震重要棟などにも給水設備やクーラーを備えた休憩室が設けられ始めた。五月に入って、加熱キット付きのレトルトカレーや中華丼などが提供されるようになった。

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(13)2カ月劣悪な寝食環境 東京新聞 2020年10月8日

(14)当初から不足汚染水タンク 2020年10月9日


汚染水処理で使うタンクはたちまち不足気味になった=東京電力提供

原子炉の暴走はほぼ収まったが、東京電力福島第一原発(イチエフ)の現場は高濃度汚染水の対応に追われた。

注水された水は、溶け落ちた核燃料に触れて汚染水となり、炉の損傷部から建屋地下へ漏出。日々の注水で汚染水は増え続け、建屋地下が満杯になると注水できなくなる。

そこで作られたのが一周5キロに及ぶ循環式の冷却システム。いったん近くの建屋地下に汚染水を一時貯蔵。放射性セシウムの除去装置に通し、一部は冷却水に再利用し、残りはタンクに貯蔵する。

「循環冷却が稼働すれば、現在4メートルほどある汚染水の水位は、秋ごろには数十センチまで下がる」。汚染水処理が始まった2011年6月、会見で東電幹部はこう強調した。

しかし、当ては外れた。1〜4号機の建屋地下には配管などの貫通部から大量の地下水が流入し、損傷した屋根から雨水も注ぎ込む。たちまち当初用意した円筒形と箱型のタンクでは足りなくなった。

汚染水を一時貯蔵する建屋の防水工事などを担当したベテラン作業員のハッピーさん(通称)は「暗闇や高線量、地下で酸欠に気をつけながらの作業だった。各建屋の水があふれるリミットが時限爆弾のように日々設定され、心身ともに限界を超えた闘いだった」と振り返った。そして敷地内の木は伐採され、タンク用地へと変貌していった。

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(14)当初から不足汚染水タンク 東京新聞 2020年10月9日

(最終回) ふくしまの10年 イチエフあの時 事故発生当初編 仮設の限界すぐに露呈 2020年10月10日


仮設の電源盤を準備する作業員(東電提供)

一刻も早く原子炉の暴走を止め、湯気の上がる使用済み核燃料プールの冷却を再開させる―。それが東京電力福島第一原発(イチエフ)の現場の最優先事項だった。

1~4号機の建屋内や周辺には、応急的な処置をするため大量の電気設備やポンプ、ホース、ケーブルが運び込まれた。床には汚染水を移送するホースが足の踏み場もないほど置かれ、建屋脇のトラックの荷台に載せられた仮設の分電盤からは、太いケーブルが何本も各所へ伸びていた。場所によっては、電源ケーブルとホースが混在していた。

ベテラン作業員のハッピーさん(通称)は、仮設の設備に早くから懸念を抱いていた。

「行き当たりばったりの突貫工事の仮設で、タンクも配管設備も『一年もてばいい』と言われて、設置を急がされた。ほとんどがメンテナンスも考えられていない。このままだと、近いうちに仮設の配管やタンクから必ず水漏れが起きると予測していた」

大震災に端を発した原発事故で大半の機器が使い物にならなくなった。それらを短期間で復活させただけに仕方ない面はある。だが「もっと早く長く使えるものに換えるべきだった」とハッピーさん。その言葉通り、仮設の限界は事故発生の年から見え始め、現場はトラブル対応に追われることになる。

=おわり (片山夏子、山川剛史が担当しました)

(最終回) ふくしまの10年 イチエフあの時 事故発生当初編 仮設の限界すぐに露呈 東京新聞  2020年10月10日