胆管がん事件と 化学物質管理制度 ・中地重晴/胆管がんシンポジウム-報告5 2012年12月16日大阪

胆管がん事件と化学物質管理制度・ 中地重晴

熊本学園大学

1. 原因物質による使用状況、規制等

今回、印刷業における胆管がん事件を引き起こした原因物質は、1,2-ジクロロプロパンと、ジクロロメタンの2種類の化学物質である。これらがどのように規制されているのか、また、どの程度日本で使用されているのか、PRTR制度等から得られる情報をまとめてみた。

(1)1,2-ジクロロプロパン

1,2-ジクロロプロパンはテトラクロロエチレンや四塩化炭素の原料とされるほか、金属洗浄用の溶剤、ドライクリーニングの溶剤、油脂、樹脂、ゴム、ワックスなどの溶剤として利用されている。農薬の1,3-プロペン(別名D-D剤)にも含まれている。

2009年の国内生産及び輸入量は約1,900トンである。
旧化審法では、第二種監視化学物質に指定されている。
大気汚染防止法では、揮発性有機化合物(VOC)として測定される可能性のある物質である。
水質汚濁防止法では、要監視項目として、0.06mg/l以下の指針値が定められている。経口慢性毒性、生態毒性の観点から、第一種PRTR対象物質に指定されている。PRTRデータによれば、2009年度の環境への排出量は、約163トン、2010年度は147トンと減少している。2010年度は、事業所からの排出量が70トンと急激に減少している。出版・印刷・同関連産業として、年間1トン以上取り扱っている事業場は報告義務があり、その排出量は2010年度で27トンである。印刷業からの排出量が、減少せず、約4割を占めることが分かる。

表1 12-ジクロロプロパンとジクロロメタンのPRTR排出量データ

PRTR制度が開始された2001年度以降の集計公表データを、表1に示す。
なお、PRTR制度とは、一定の毒性のある対象物質について、事業場から環境中に排出した量と廃棄物等に移動させた量を推計し、都道府県を経由して、国に届出る制度である。最初、2年間は、年間5トン以上の取扱量のある事業場が届出対象であった。2003年度以降は、年間1トン以上取り扱う事業場が届出対象となった。また、国は、信頼できる統計データをもとに、届出対象外の小規模事業場、少量取り扱い事業場、対象外業種の事業場、家庭や移動体などからの排出量も推計している。

PRTRデータによって、環境中に排出された有害化学物質の量が把握され、公表することにより、事業者の自主的取り組み、努力によって、有害化学物質の使用量や排出量の削減に結び付くと考えられている。
筆者が代表を務める有害化学物質削減ネットワークでは、届出データを検索できるウェブサイトを運営している。

今回、問題になった㈱SANYO-CYPは、2001年度の届出で、1,2-ジクロロプロパンを8,300kg(8.3トン)大気中に排出したと届出しているが、翌年以降は届出していない。間違って届出したのか、故意に届出をしなかったのかは不明であるが、2001年度の報告が正しければ、印刷業からの約13%に相当する量を環境中に排出していたことになり、以前は相当量の1,2-ジクロロプロパンを使用していたと考えられる。

また、毒性については、環境省の「化学物質の環境リスク初期評価」、(独)製品評価技術基盤気候及び(財)化学物質評価機構の「化学物質の初期リスク評価書」で評価されている。

(2)ジクロロメタン

ジクロロメタンは、約半分はフロン113にかわる金属表面の洗浄剤として使用されている。医薬品や農薬を製造する際の溶剤、エアゾール噴射剤、塗装剥離剤、ポリカーボネート樹脂の重合時の溶媒、ウレタンフォームの発泡助剤などに使用されている。

IARCがグループ2B(ヒトに対して発がん性があるかもしれない)に分類しているため、変異原性、生態毒性もあり、旧化審法では、第二種、第三種監視化学物質に指定されていた。大気環境基準0.15mg/㎥以下、水質環境基準0.02mg/l以下、土壌環境基準0.02mg/l以下が定められている。
大気汚染防止法では、有害大気汚染物質(優先取組物質)、揮発性有機化合物(VOC)として、規制されている。水道法では水質基準が定められている。
土壌汚染対策法の特定有害物質、廃棄物処理法では特別管理廃棄物の基準が定められている。
労働安全衛生法では、管理濃度50ppmが定められている。特定化学物質障害予防規則の対象物質である。

PRTRデータでは、2009年度、2010年度約15,000トンが環境中に排出されたと推定されている。トルエン、キシレンに次いで、3番目に環境中への排出量が多い物質である。事業者の自主的取り組みにより、年々排出量が減少しているが、印刷業からの排出は、最近、横ばい状態であることが分かる。

2. 日本における化学物質管理体制の問題点

日本の化学物質管理は省庁縦割りであるのが特徴的である。
たとえば、現在、原材料中の有害化学物質については、GHS対応のSDS(安全性データシート)を付けて、流通することになっているが、労働現場で使用されている限りは、労働安全衛生法で、SDSの添付が義務付けられている。
それとは別に、化学物質排出把握管理促進法(化管法)のPRTR制度や毒物劇物取締法でもSDSの作成を義務付けているが、対象の化学物質が違うので、物質数に差が生じている。

SDSは、以前はMSDS(化学物質安全性データーシート)と呼ばれていたが、近年、SDSという略称に統一しようという動きがある。化学物質の物性データや毒性データ、取扱上の注意、事故時の対処方法などを表にまとめて、製品に添付することが義務づけられている。化学物質の毒性データや危険性データに関しては、GHS制度に基づいて、有害・危険性を分類し、その区分に合わせたシンボルマークを表示することが、義務付けられた。

GHSとは、化学製品に含有されている化学物質の爆発性などの危険性や人体への毒性、生態系への影響などの有害性の程度を分類(クラス分け)し、その程度を誰にでもわかるように絵シンボルでラベル表示したり、データシートに示したりする制度である。
2003年7月国連が世界統一の制度として確立するために、「化学品の分類及び表示に関する世界調和システム」として、2008年までに各国で制度化するように、勧告した。市民にとってなじみの薄い表示制度だが、労働安全衛生法が改正され、日本でも2006年12月から施行された。

労働安全衛生法では、職場の中で使用される製品等に、含有する化学物質の爆発の危険性や人体への有害性について、その強さで区分し、その危険性毒性のランクを示す絵表示の添付が義務付けられている。
GHSは労働安全衛生法で、義務付けられただけなので、消費者製品に対する表示義務がなく、一般に流通する消費者製品に添付されていないことが、問題だと市民団体から指摘されている。

日本では、有害な化学物質の新規製造に関しては、1974年にカネミ油症事件を引き起こしたPCBの製造使用を禁止するために制定された化学物質審査規制法によって、難分解性、高蓄積性、生態毒性(2003年から)を試験し、製造を許可するかどうかの判定を行ってきた。毒性の高いものは製造禁止し、監視物質として、製造量の届出が義務付けられてきた。

2020年目標を達成するためには、既存化学物質(化審法制定以前から使用されてきた化学物質)の安全性評価(リスク評価)が必要となり、2010年4月より、製造者に化学物質の製造量と主な用途の届出が義務付けられた。この届出をもとに、優先リスク評価物質をリスト化し、順次、リスク評価を行うことになっている。

また、化管法では、事業者に有害化学物質の使用量の削減を求め、自主的な取り組みによる排出削減を進めている。国の動きに合わせて、都道府県、政令市では、独自に化学物質管理条例を制定し、排出量の届出対象物質を追加したり、取扱い量の届出や小規模事業者に届出義務を負わせるような上乗せ横出しのPRTR制度を運用しているところもある。また、事業者に化学物質使用削減計画の作成と提出を求めている自治体もある。
今回問題になった1,2-ジクロロプロパンの使用量や排出量の把握を、条例に基づいて、小規模事業者に義務付けておれば、印刷業における使用実態を把握することが容易になったことが考えられ、省庁縦割りにこだわらず、化学物質管理のあり方を見直す必要があると考える。

3. 化学物質管理をめぐる世界の動き

(1)概観

人の健康や環境に悪影響を及ぼす化学物質の使用や製造を削減していく努力は、1992年の地球環境サミット以後、先進国だけでなく、地球レベルでも問題となり、各国で取り組まれている。

1992年の地球環境サミットにおいて採択された「環境と開発に関するリオ宣言」では、持続可能性、世代間の公平、生態系保全、先進国の義務、市民参加、被害者救済、予防原則、汚染者負担の原則など、重要な原則とこれに対する先進国としての責任を明らかにした。また、2002年にヨハネスブルクで開催されたWSSD(持続可能な開発に関する世界首脳会議)では、「2020年までに化学物質による人の健康と環境への影響を最小にする」という2020年目標が決議され、国際化学物質管理への戦略的アプローチ(SAICM)が採択され、日本においても国内実施計画を策定する作業が行われた。

2008年までに、化学物質の毒性、危険性に関する絵表示制度の導入を求めるGHS(化学品の分類及び表示に関する世界調和システム)国連勧告に基づいて、日本では労働安全衛生法が改正され、2006年12月からGHS制度が開始された。EU(欧州委員会)では家電製品の中に鉛や水銀、塩化ビニルなどの有害物を含まないように規制するRose規制が開始された。2007年には新化学物質政策REACH(化学品の登録、認可、評価システム)制度が開始された。アメリカでもTSCA(有害物質規制法)の改正案が議論されている。

その背景には、先進各国共通の課題として、少量の新たに開発された化学物質数が急増し、現行の審査制度では対応が困難になっていることや、従来から使用されている既存化学物質の毒性評価が思ったほど進んでいないことなどが指摘されている。また、ナノ粒子・ナノテクノロジーという新たな問題もでてきている。先進各国で化学物質をどのように管理していくのか、転換点にさしかかっているといえる。

日本でも2007年化学物質排出把握管理促進法の見直し、2009年化学物質審査規制法の見直しを見据えた検討委員会が環境省、経済産業省に設置され、検討された。2010年4月より、改正された化管法、化審法が実施されている。
2006年に、SAICMの世界実施計画がまとめられ、その進捗を討議する世界化学物質管理会議(ICCM)が3回開催された。

(2)EUのREACH

REACHは、化学物質の登録(Registration)、評価(Evaluation)、認可(Authorization)の制度の略称。

新しく開発される新規化学物質だけでなく、すでに使用、製造されている既存化学物質について、毒性評価をきちんと行い、有害なものは市場に出回らないように、規制していこうとする制度である。

従来から毒性試験などを実施せずにEU圏内の産業市場に出されている既存の化学物質を含めて、一定量以上製造されるすべての化学物質、または有害性があり、人の健康環境へのリスクが高いと見なされる化学物質について、製造、輸入業者、企業が必要な毒性試験データを整えて、EU当局に「登録」し、必要に応じて、EU当局の「評価」及び「認可」を受けるという制度である。制度の運営のために、EUは、評価と認可事務のために、職員数が千人を超える欧州化学品庁(European Chemical Agency)という担当部局を2008年に設立した。

EU域内で事業活動を行う製造、輸入業者に対し、製造、輸入する量が年間1トンを超える化学物質について、化学物質のもつ性質と危険性に関する情報及び用途を報告(「登録」する)することを義務付けている。2018年までに登録を終えないと、それ以後、EU域内での製造や輸入ができなくなる。

また、年間使用、輸入量が10トンを越える化学物質の場合には、初期リスク評価をまとめ、EU化学品庁に対し、毒性試験データなどの必要な情報を取りまとめ、「登録」することを義務付けている。毒性試験などの製品情報についての責任とそれを取得するために発生するコストは、使用、輸入事業者である企業側が負担する。EU域内で、登録対象となる年間1トン以上製造、輸入される化学物質は、約3万種類あるといわれている。

登録された化学物質の中で、人間の健康と環境に大きなリスクを及ぼす恐れのある物質については「評価」が行われるが、この評価の対象物質は約1万種類と見積もられている。製造、輸入業者は、登録された化学物質の用途ごとに化学品安全性アセスメント実施し、化学品安全性報告書を提出することが義務つけられる。提出された化学品安全性報告書について、EU化学品庁は「評価」し、必要に応じて登録申請した製造、輸入業者に追加情報の提供を要求することができる。

非常に健康や環境へのリスクが高いと懸念される化学物質は「認可」の対象となる。これらの化学物質の中には、有毒物質、発がん性物質、変異原性物質、生殖毒性物質、及び難分解性で環境中に蓄積する化学物質が含まれる。製造、輸入業者はこれらの化学物質の使用前に「認可」を受けることが義務付けられており、認可は当該化学物質の個々の用途ごとに区分して与えられる。

EU化学品庁による「認可」は、当該物質の使用が適切に管理され、あるいは社会経済的な便益がリスクより重要であると企業が証明できた場合にのみ、与えられる。社会経済的な便益よりも健康や環境へのリスクが高いと判断される場合には、その化学物質の使用よりも代替物質の可能性の検討が推奨される。

社会経済的要素を十分考慮したうえで、許容できないリスクを及ぼす物質は、規制(「制限」)される。「制限」には、特定製品への使用禁止、消費者の使用禁止、または完全な禁止などがある。制限物質としては、アスベスト繊維、有機すず化合物、カドミウムおよびその化合物、発がん性、変異原性または生殖毒性カテゴリー1または2に分類される化学物質(約860物質)、ノニルフェノール及びノニルフェノールエトキシレートなどがあげられている。

REACHの根底には、市場にある化学物質の安全性確認、安全性の立証責任の産業界への移行と、有害性の可能性のある化学物質の使用に関する予防原則、有害性が明らかな場合の代替品開発をめざす代替原則などの基本理念が確立されている。

(3)2020年目標の実現に向けて

「化学物質による人の健康と環境への悪影響を最小にするという」2020年目標の実現のために、国際的にさまざまな取り組みが活発化している。日本でも、化審法を改正し、優先リスク評価物質のリスト化で、既存化学物質対策を進めようとしている。

中国や韓国でも、GHS制度や、化学物質の登録、評価、認可をするREACH制度の導入を内容とする化学物質管理の法制度の立法化や改正が行われてきている。

今回起きた印刷業における胆管がん事件は、化学物質の毒性評価と情報共有をどのように行うのか。日本の制度の不備、毒性情報、被害がなければ、規制しないという「ノーデータ、ノーレギュレーション」制度の負の側面が浮き彫りにされたといえる。2020年目標の達成のために、日本においても、新規、既存に関わらず、すべての化学物質の安全性を評価する作業を急がなければいけないことが明確になったと考える。

その際、労働現場だけを監督するだけでなく、化学物質の使用を一元管理する新たな枠組みが求められている。また、EU等で法制度化されている予防原則や代替原則についても、化学物質管理制度の中に取り込み、より安全な化学物質の使用をめざしていかなければいけないと考える。

安全センター情報2013年4月号