2024年中に亡くなった世界のアスベスト被害者団体リーダー
アスベスト禁止国際書記局(IBAS)のローリー・カザン・アレンさんは、2024年をふりかえる記事の中で、以下の卓越した世界のアスベスト被害者団体のリーダーが亡くなられたことを思い起こさせるとともに、各人について追悼記事を捧げている
※http://ibasecretariat.org/lka-looking-back-on-2024.php
■日本

右田孝雄さんは言うまでもなく、2019年6月19日に闘病19年目に52歳で亡くなった栗田英司さんとともに、2017年に設立された中皮腫サポートキャラバン隊の創設者である。2024年3月2日に闘病8年にして59歳で亡くなられた。
筆者は、彼らと中皮腫サポートキャラバン隊の活動は、中皮腫患者たち自身によるイニシアティブとして世界的に特筆すべきものだと考えていたが、IBASは8月1日に追悼記事を書いてくれた。
6月28日に関西テレビのザ・ドキュメント「僕より先に死なないで~アスベスト・中皮腫患者の7年~」が放映されたことや、栗田英司さんのことにもふれながら、彼女は、「この25年間に私は素晴らしい人々に出会い、交流する機会に恵まれてきた。彼らの人生は、アスベストが原因で回避可能な致死的な病気を患う男女の苦境を改善することに捧げられてきた。よく知っている人もいれば、評判だけは知っている人もいた。非情なアスベスト利権者によって人生を奪われた個人や家族を支援するために、彼らが無私の努力を続けてきたことは、すべての人々の記憶に留めるべきである」と書いた。
ローリーは、2017年7月に東京で開催された石綿対策全国連絡会議(BANJAN)30周年記念国際会議で来日したときの懇親会で、中皮腫サポートキャラバン隊の創設者たちと会っている。
※IBAS追悼記事:http://ibasecretariat.org/lka-blog.php#a224
■オーストラリア
ロバート・ボジャコヴィッチ(Robert Vojakovic)さんは、オーストラリア・アスベスト疾患協会(ADSA、1979年設立)の会長として、自身もかつて働いていた悪名高いアスベスト鉱山の町ウィットヌームの鉱夫、精製工、運送労働者、その家族がアスベスト曝露によって受けた壊滅的な影響を明らかにするために、時間と労力を捧げた。
その知名度が高まるにつれて脅迫や威嚇を受けるようになったが屈することはなく、また、彼の言葉遣いは常に聖人のようなものではなかったが、オリンピック選手のような体力と聖人のような忍耐力を備え、アスベスト裁判の被告を出し抜くような政治的頭脳の持ち主でもあった。画期的な訴訟の重要な書類をどのように入手したのかと尋ねられると、無地の茶封筒で届いたと答え、微笑んだ。
10代のときにクロアチアを逃れ、オーストリアとフランスで生活するために奮闘し、その後またオーストラリアにやってきた彼は、ウエスターン・オーストラリア州でアスベストに関わるあらゆることについて「公けの顔」になり、2024年7月27日に84歳で逝去された。
彼は、伴侶であり永遠の同志であったローズマリーさんとともに、2004年世界アスベスト東京会議(GAC2004)にも参加。筆者は2019年11月にパースのADSA事務所を訪問することができた。
※IBAS追悼記事:http://ibasecretariat.org/lka-a-stranger-to-their-shores-robert-vojakovic-1940-2024.php
■イタリア
ロマーナ・ブラソッティ・パヴェシ(Romana Blasotti Pavesi)さんは、夫のマリオ、娘のマリア・ローザ、息子のオッタビアーノ、姉のリベーラ、甥のエンリコ、そして従姉妹のアンナを中皮腫で失った(アスベストを直接扱ったことがあるのはマリオだけだった)。
その前身が1988年に設立された(1998年改称)イタリア・アスベスト被害者・家族協会(AFeVA)の会長として、自らそうありたいと語っていたように、「1970年代後半にカザーレ・モンフェッラートではじまった運動の最前線に立って」きた。
2024年9月11日に95歳で亡くなった彼女の訃報は、多数の新聞記事やSNS投稿、テレビ番組での追悼の嵐を巻き起こした。そのすべてが、容赦なく人々を傷つけ、命を奪ったアスベスト工場の所有者や経営者を糾弾するために、被害者やその家族が闘うなかで彼女が果たした役割を強調した。イタリアでは、彼女の死に関するメディアの集中的な報道は実に注目に値するものだった。
筆者は2014年11月にローマでの最高裁判決とその後にカザーレ・モンフェッラートで行われた行動に参加して、彼女に会っている。2015年6月のクボタ・ショックから10年の尼崎集会に、AFeVAから3人の代表をお招きした。
※IBAS追悼記事:http://ibasecretariat.org/lka-remembering-romana-lasotti-pavesi-1929-2024.php
■ベルギー

本誌でもたびたび紹介してきたエリック・ヨンケア(Eric Jonckheere)さんが、父親のピエール(1987年)、母親のフランソワーズ(2000年)、兄弟のピエール=ポール(2003年)とステファン(2009年)に続いて、2024年12月14日に66歳で亡くなられたことを受け入れるのは難しい。母親が創設したベルギー・アスベスト被害者協会(ABEVA)の会長だった。
彼は、2007年11月に横浜で開催されたBANJAN20周年記念国際会議に初参加し、2015年6月にも再来日している(尼崎)。アジア・アスベスト禁止ネットワーク(ABAN)が設立された2009年4月香港でのアジア・アスベスト会議、2010年10月インドネシア・バンドンと2011年11月インド・ジャイプールでのABAN会議にも参加。筆者は、2012年10月フランス・パリでのアスベスト被害者国際デー、2014年11月のイタリア・ローマでの最高裁判決のときにもお世話になった(パリの後には、ベルギーのカペレ・オプ・テン・ボスも訪問してエリックに案内してもらった)。2017年3月の母親のフランソワーズさんが提起した裁判の高裁判決には筆者と中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会の小菅千恵子会長が参加(エリックは判決の翌日には日本からの2人の観光案内もしてくれた)、また、同年7月の患者と家族の会のイギリス訪問団派遣に合わせてマンチェスターで開催された国際会議にも、フランス・スペイン代表とともにエリックも合流してくれた。
2022年4月に、友人たちが恐れていたエリックが中皮腫に診断されたという知らせがもたらされた。2023年5月にタイ・バンコク開催のABAN会議では、オンライン中継で闘病中のエリックからメッセージをもらった。同年6月にフランス・リールで開催された第16回国際中皮腫研究会(iMig)国際会議にもエリックは参加し、筆者も参加するよう誘われたのだができなかった。また、2024年9月5日にカペレ・オプ・テン・ボスでアスベスト被害者を祈念するモニュメントの除幕式があると誘われたが、やはり行けなかった。
12月上旬にエリックがホスピスに入ったと連絡を受け、WhatsAppに最後にメッセージを送ったのは亡くなられた直後になってしまった。12月21日に執り行われた葬儀には、IBASとABANから花束を贈った。彼の遺言にしたがって!棺は、大きな黒い霊柩車ではなく、愛車であるフォルクスワーゲンのバンで「最後の旅」をした(写真が送られてきた)。

※IBAS追悼記事:http://ibasecretariat.org/lka-blog.php#a229
(古谷杉郎)
安全センター情報2025年3月号