コロンビアのアスベスト禁止を全会一致で承認
われわれに勝利をもたらした長いプロセスの年代記
「管理使用」という前提のもと、コロンビアは、1980年代に提起された一部の孤立した科学者・機関からの警告にもかかわらず、欧州や北米から輸入された工業・採掘方法を複製して、77年間アスベストの消費国、42年間生産国であり、最近数十年間の年間消費量は平均2万トンであった。アスベストを禁止しようとする法的・立法的イニシアティブが現われたのはようやく2000年代最初の10年になってからであり、次の10年間のほぼすべて組織的には失敗が続いた後、2019年についに共和国の満場一致の支持を実現する法案が結晶化した。しかし、これは、コロンビアにおけるアスベストの決定的な禁止を支持する運動を作り出した、国家公務員を含む社会、環境、政治、科学、学術、メディアや芸術のリーダーたちが、世論の高まる支持を受けて、2019年6月の最終承認までのすべての障害を乗り越えることができた、真剣で粘り強い取り組みの成果なのである。アスベスト被害者に敬意を表したアナ・セシリア・ニーニョ法は、共和国大統領によって承認されようとしている[編注:すでに承認済み]。
目次
コロンビアにおけるアスベストの採掘・消費
コロンビアでアスベストが工業的に使用されるようになったのは、エテルニット社のブランドが国内市場に参入した1942年のことである。この年、この鉱物の最初の移転工場が、エテルニット・コロンビアナという名前で、ボゴタ近くの町(シバテ)に建設された。その後、この会社の子会社がバランキージャ(エテルニット・アトランティコ)とバジェのユンボ(エテルニット・パシフィコ)に、ともに1945年に設立された。1957年に経済集団ネメ・エルマーノスが、自動車部品の製造にアスベストを導入し、ボゴタ市に、自動車ブレーキ用のパッドとパッケージを専門とするインドゥベストスという名の工場を立ち上げた。数年後にさらに2つのアスベスト・セメント企業が、ともにマニサレス市にあるコーヒー産地、コロンビトに1967年、マニリットに1983年に現われた。
この歴史的レビューにとってもうひとつ重要な情報は、カンパメント市(アンティオキア州)から16km、ヤルマル市から36km、メデジン(コロンビア第2の都市)から160kmに位置する(クリソタイル)アスベスト鉱山の操業開始に関するものである。この鉱山は1974年に操業を開始し、コロンビア国内市場へのその貢献はこの10年間USGS(米国地質調査所)の統計に登録されていないものの、一部の情報源によると、月産12,000トンの生産能力があり、その後18,000トンに増加したことが知られている。
この鉱山は1977年にスイスのコンサルタントを受けて建設された技術プラントで操業を開始したとはいえ、1974年以降この会社は合法的に存在していた。1980年以降、コロンビアにおけるアスベスト消費は大きく増加し、以下に示すように、年平均2万トンという数字だった。
1980年-27,057トン、1985年-26,620トン、1990年-21,437トン、1995年-22,925トン、2001年-16,364トン、2005年-23,858トン、2010年-20,048トン、2012年-25,164トン、2013年-16,000トン、2014年-8,000トン。
長年にわたってアスベスト産業は、アスベストの「管理使用」によるガイドラインのもと、コロンビア国家の公共政策に浸透する活動を展開してきた。
1980年代は、コロンビアにおけるアスベスト使用の歴史のなかで非常に重要な期間となった。第1に、(とりわけ危険な)クロシドライト・アスベストの使用がエテルニットその他この部門の他の会社で中止されたからであり、第2に、「ラテンアメリカにおけるアスベストと健康」という会議がメキシコシティで開催されたからである。そして第3に、コロンビアがILOによって採択された第162号条約に署名し、1998年の法律第436号によって批准したからである。その後、2001年の決議第935号によりアスベスト部門全国労働衛生委員会が設立され、2008年の決議第1458号によりアスベスト部門全国労働衛生委員会は、クリソタイル・アスベストその他繊維全国労働衛生委員会に置き換えられた。このような事実の枠組みのなかで、保健社会保護省の主導のもとに2011年の決議第007号が策定され、アスベスト・クリソタイルの使用規制の枠組みを法制化するとともに、それを含有する製品の取り扱いを認めた。
メキシコでの会議は非常に重要だった。それは汎米保健機構(PAHO)と世界保健機関(WHO)によって開催され、会議のなかでは、米国のマウントサイナイ医科大学が実施した調査、コロンビア社会保障研究所のクララ・バレーラや米国アルバート・アインシュタイン医科大学のデビッド・マイケルズ博士などの一部の孤立した声が、参加していたアスベスト業界の名高い男たちに異議を申し立てた。しかし、会議の結論は、リスク要因は曝露レベルを可能な限り低減し、工学的管理を導入し、労働者に個人保護機器を提供することによって管理することができるという考え方である「管理使用」のリズムをこの地域に押し付けるものだった。
社会、議会や研究者らによる反応
2005年に、法的手段によってそのような法的物質を禁止することを追求する、コロンビアにおけるアスベスト使用に反対する集団訴訟が起こされた。立法レベルによる具体的行動は、2007年にイエス・ベルナル・アモロンチョ元老院[上院]議員が、「それにより国家領土内におけるあらゆる種類の要素の製造においてすべての種類のアスベストの使用を禁止する」法案を提出してはじまり、この法案は第一討論では承認されたが、その後しまいこまれてしまった。同じように、その後4つの法案の提出があった。2015年と2016年には、ナディア・ブレル元老院議員が同じ意図を追求した法案を提出したが、途中経過で沈没してしまった。
最終的に2017年にナディア・ブレル元老院議員が、あるアスベスト被害者に敬意を表したアナ・セシリア・ニーニョ法案を共和国元老院に提出し、それが元老院第7委員会と本会議の両方、そしてマウリシオ・トロ下院議員の支持を得た代議院も通過して、コロンビア共和国の法律になった。
この禁止法案は、コロンビアの市民団体、メディア、NGO、研究者、アーチスト、活動家や保健分野の公共・民間機関による支援という非常に興味深い背景をもっており、それらは、この国におけるアスベスト禁止に向けて効果的に圧力をかけるメカニズムを構築するのに役立った、一連の状況や出来事を生み出した。
学術分野では、科学者で研究者のフアン・パブロ・ラモスが、ロスアンデス大学のマリア・フェルナンダ・セリとともに、2012年11月に「Annals of Occupational Hygiene」誌に、あらゆる種類の自動車のパッド、ディスク、クラッチを加工する作業場で働く労働者の健康に対するアスベストの影響に関する一連の現地調査の最初の論文を発表した。科学分野では、フアン・パブロ・ラモス教授の報告が、アスベスト産業と「アスベスト管理使用」に対する論争において、強力な論拠となるものであった。この論文の結論のなかで、TEM[透過型電子顕微鏡]で分析したいくつかのサンプルは、きわめて高い空気中アスベスト濃度を示したと書かれていた。この研究の結果は、アスベストを禁止及び/または制限する国のグループにコロンビアが加わることを真剣に考慮すべきことを示唆していた。
2012年12月、アーチストで美術評論家であるギレルモ・ビリャミセルが、ステファン・シュミットハイニーとアスベスト・文化との関係を立証したダロス報告書を発表した。周知のように、欧州諸国でのアスベスト産業の崩壊にともない、シュミットハイニーはラテンアメリカへ投資をシフトしはじめることを模索した。2012年2月13日、ステファン・アーネスト・シュミットハイニーとそのパートナーのジャン・ルイ・バロン・ド・カルティエ・ド・マルキエンヌは、イタリアのトリノの裁判所により、「環境と健康の永久的大惨事」を引き起こし、工場での安全規則に違反したとして、前者はイタリア・エテルニットの大株主である産業グループ、ベルギー-スイス・エテルニット(ETEX)のオーナーとして、後者は取締役兼少数株主として、懲役16年を宣告されることになった。この判決では、1976~1986年にエテルニット・イタリアの工場があった4つの村の元労働者または住人、3千人の死に彼らは責任があるとされている。この訴訟は、ほぼ半世紀にわたる、カサーレ・モンフェラートのエテルニット工場の元労働者が中心となって集団的に行われた刑事的社会動員の一部である。
美術評論家のブログに掲載されたこの記事と並行して、ジャーナリストのアンドレス・オヨスが、2013年にラジオ、新聞、テレビ、ニューメディアでキャンペーンを開始し、そのほとんどがエテルニットと関係がある、コロンビアにおけるアスベスト被害者を社会に知らせはじめた。そうした最初の被害者の一人が、ボゴタ郊外にあるエテルニットの工場での仕事を終えて帰宅した父親の作業服に付着したアスベストを吸い込んだことによって、2013年8月に中皮腫によって亡くなったルイス・アルフォンソ・マヨルガの未亡人、セシリア・リアーニョだった。セシリア・リアーニョの義父は、2000年に中皮腫のために亡くなっている。別のテレビ報道は、軽自動車にブレーキパッドを取り付ける整備工場の事務職員で、2018年に胸膜中皮腫により死亡するアルシラ・フォレロを紹介した。
アスベストに反対する運動の成長
2014年には、アスベストの産業利用に関連した複雑な問題を可視化するために、学術という別の側面から支援する、2つのイベントが開催された。
その年のはじめ、2月19日と20日にボゴタのコロンビア国立大学レオン・デ・グリフ講堂で、国立大学医学部公衆衛生研究所(よく知られたカルロス・アグデロ博士が所長)、イタリア国立衛生研究所、アンデス大学が環境と労働衛生に関する国際会議と名付けられた集まりを開催して、活動が開始された。
コロンビアでは10月はアートの月として祝われ、ボゴタでは商工会議所がアートフェアArtBoに資金を提供している。ArtBoの対象外である他の諸問題への市民参加の場を提供するために、市の文化カレンダーに掲載される並行行事も生まれている。2014年10月、シンクロニア・アートフェアでギレルモ・ビリャミセルによって展示されたアートワークの焦点は、グローバル・アスベスト・スキャンダルだった。
科学とアートの相互作用を考慮して、ギレルモ・ビリャミセルは、アスベスト問題に関連した一連のレクチャーとアート展示を実施することについて、アルザテ・アヴェンダーノ財団(ボゴタの公共文化機関)にアプローチした。
一連の会議とイベント「アスベスト:アート、科学及び政治」の開催に必要な支援と専門技能を提供するための機関間ワーキンググループが設立された
情報共有と公開討論の機会を最大限にするために、シンポジウムは3日間の活動に分けられた。初日には、コンラッド・アトキンソン、ビル・ラバネシ、ビューロー・デチュードなど、アートとアスベストに関する展示に参加したアーチストを中心に、政治的なアートに関する議論が行われた。同時に考慮された問題には、アスベスト多国籍企業エテルニットのスイス人元オーナーによる現代ラテンアメリカ・アートの重要なコレクションの購入など-アートの政治化も含まれた。
2日目に講演した著名な国際的専門家のうち、フェルナンダ・ジアナーシ(ブラジル)は、アスベストは健康破壊であり、業界が資金提供した世界的な虚偽キャンペーンによって軽視されてきたと話した。バリー・キャッスルマン博士(アメリカ)は、アスベストビジネスの犯罪性について話し、犯罪行為を列挙し、アスベスト経営者や企業の起訴について紹介した。たばこ産業と同じように、政府がアスベスト産業と協議するのは、その閉鎖と既存アスベスト処理を目的とする場合に限られるべきだと、彼は話した。アーサー・フランク博士(アメリカ)は、「アスベストの何が問題なのか?」と、非常に教育的な講演を行った。話された問題には、喫煙者に対するアスベストの特別なリスク、動物実験の役割、アスベストを安全に除去する方法、宣四国から開発途上国へのアスベスト産業の国際移転が含まれた。エドゥアルド・ロドリゲス博士(アルゼンチン)は、アスベスト禁止を避けるために業界がアルゼンチンで広めた嘘について説明し、禁止後に起こるだろうと業界が予測した悪影響がひとつも起きなかったと述べた。その代わりに、アスベストフリー技術への秩序ある移行が行われた。この日の最後には、コロンビアのアスベスト被害者が聴衆に、自らのアスベスト関連疾患について話した。
3日目、講演者のパオラ・デ・カストロは、アスベストの危険性に関する科学的情報を伝えるための新しい技術プラットフォームとツールの有用性を強調した。議論はコロンビアにおける科学的研究と、アスベスト加工・使用職場に対する法的要求事項に焦点をあて、アンデス大学のフアン・パブロ・ラモス・ボニージャ博士によると、後者は日常的に守られておらず、ラモス・ボニージャは、ボゴタの乗用車・大型車のブレーキ修理工場で働く労働者におけるアスベスト関連疾患の確認について報告した。
会議の数日前に、El Tiempo(コロンビアでもっとも人気のある日刊紙)が、コロンビアのアスベストロビー協会の会長であるジョルジ・アルナン・エストラーダ博士のインタビューを掲載し、彼はコロンビアで使用されているアスベスト(クリソタイル)は規制されており、安全であると指摘した。
このプロパガンダの発表を受けて、会議の代表者らは、世論を欺こうとするこれらの主張を否定する声明を発表した。
興味深いことに、同じ年、より正確には2014年9月8日、ジャーナリストのアナ・セシリア・ニーニョが、幼少期にボゴタのエテルニット社のアスベストセメント工場の近くに住んでいたときの間接的・環境曝露が原因で、悪性胸膜中皮腫と診断された。アナ・セシリアの強さ、性格、決断力が、自らの病気を、この致命的な繊維と闘うのための命の主張に変えることにつながり、彼女のイメージをコロンビアにおけるアスベスト反対運動のもっとも重要なシンボルにした。
その他の重要な進歩と取り返しのつかない損失
2015年を通じて、アスベストに反対する取り組みは成長した。2015年7月、オンラインプラットフォームchange.orgが、アスベスト使用に反対する署名を集めるキャンペーンをはじめた。この署名活動は世論やメディアに大きな影響を与え、数日で10万人を超える署名が集まった。
ボゴタで開催された美術展のなかの、アーチストや医学生を対象にしたレクチャーで、イタリア国立衛生研究所のメンバーとともに、私[ギレルモ・ビリャミセル]は初めてアナ・セシリア・ニーニョに会う機会を得た。同じ日に、ナディア・ブレール元老院議員が、彼女が初めて議会に提出し、第7元老院委員会での最初の討論をかてなかった、法案を支持する招待状を広げた。
この年、ロスアンデス大学の研究者たちが再び、「自動車修理工場におけるトランスミッション整備士のアスベスト曝露」を発表して、科学的議論を強化した。
2016年3月、カミロ・アラケ弁護士は、コロンビアにおける法的・立法的対応が進んでいないことから、米州機構(OAS)の米州人権委員会に対して、コロンビアにおけるアスベストの使用から環境と被害者を守るための訴訟を提起した。
この司法活動と並行して、Greenpeace運動が禁止キャンペーンに加わり、市民やメディア、とりわけ新聞・テレビに大きな影響を与えた、公共の場所における一連の活動を進展させた。change.orgとGreenpeaceの2つのオンラインプラットフォームの連合が、コロンビア市民の要求を20万を超す署名に引き上げた。
2017年1月、コロンビアにおけるアスベスト使用に反対する運動はやるせない知らせを受け取る-アナ・セシリア・ニーニョが亡くなったのである。様々な団体の声がさらに集まり、運動はより大きく、よりよい社会的な表現をもちはじめる。各々の行動範囲から何をしたかを語ろうとするときりがないが、これらの行動の総体が、禁止の政治的・経済的な敵に対する圧力の大波を生み出していたのである。
全員がアスベストに反対
MASPとORACが、ロスアンデス大学とエル・ロサリオ大学による学術的・法的分析の観測所として闘いに加わり、禁止を支持する議論を増強する重要なインプットを提供した。
2017年、そして国立がん研究所の支援を受けてコロンビアにおけるアスベストに関する会議の第2ラウンドを終えた時点で、サントス大統領政権の内務省は、保健省、労働省及び環境省と連携して、法案を支援する集中的な取り組みを行うようになった。
2018年には、ダニエル・ピネダとカミロ・アラケのリーダーシップによって、アスベストの使用に関する地域的制限のプロセスを実施するための地方自治体による禁止が、異なるコロンビアの都市ではじまった。これまでに、ボヤカ県を中心に12の都市が呼びかけに応じ、ボゴタ市は現在、その意味での法律の制定に取り組んでいる。
ORACは2018年9月13日にアスベストに関するシンポジウムを開催し、リンダ・レインスタイン[アメリカ]をはじめとする国内外のゲストが参加した。その日、映画監督のフェリペ・リコ・アタラは、アナ・セシリア・ニーニョの闘いを伝えるドキュメンタリー「INEXTINGUIBLE」を発表し、同じ日にラウル・メディナは、アスベスト産業の労働者として中皮腫と診断され、2019年4月3日に死亡することになる自らの人生経験を聴衆に伝えるプレゼンテーションを行った。
最後の勢いと切望された勝利
2018年12月4日、アナ・セシリア・ニーニョ法案が元老院本会議で承認されたが、代議員では2019年の第1会期における審議が残され、承認が必要な最大期限は2019年6月20日までだった。
ここで言及したすべての団体と人々は、残された2つの最終討議を推進するために努力を倍増させた。
ダニエル・ピネダ(アナ・セシリア・ニーニョの未亡人)、Greenpeace、change.orgに組織された、ソーシャルネットワーク上での行動からなるきわめて重要な一連の行動で、TwitterやFacebook上のキャンペーンが代議員議員に強い圧力を発揮し、世論の心臓部でその存在を高める有効な方法として決定的な役割を果たした。
3月1日、ボゴタDC第39巡回行政裁判所は、集団訴訟に対する対応として、アスベストが健康に対するリスクを示すことを考慮して、コロンビアにおけるアスベストの使用を代替する公共政策を推進するよう保健省と労働省に命じ、この原料を代替する全プロセスを行えるようにするために5年の期限を政府に与える評決を下した。
ディオンヌ・クルスが代表を務めるコロンビア公衆衛生学会も、運動に重要な支援を提供した別の団体のひとつで、MASPと国立医学アカデミーと共同して、「アナ・セシリア・ニーニョ法案に関連した医学的・法的諸側面」と題したイベントを4月4日に開催し、国立がん研究所とナディア・ブレル元老院議員も参加した。法案に不利な時間がはじまり、すべての団体と活動家が、期限切れによって法案が沈没するのを防ぐために動きはじめたのである。
コロンビア・アスベスト・フリーファウンデーション(FUNDCLAS)は、国立大学医学部やボゴタ/クンディナマルカ赤十字と共同で、「コロンビアにおけるアスベスト」を発行した。ギレルモ・ビリャミセルとガブリエル・カメロ博士によって執筆された議論のための基本は、コロンビア議会の代議員議員に大量に配布された。
5月6日と7日、ドレクセル大学[アメリカ]のアーサー・フランク博士が訪れ、コロンビア議会への訪問が予定された期間中に、知見を知らせるのに役立ったレクチャーや会話を提供して、話を聞く機会を得た法案の説明者たちの知見を高めた。
ロベルト・バケロ博士が率いるコロンビアの医学専門家のギルドを代表する機関であるコロンビア医科大学が、トロ博士に対して法案に関する彼の発言を支持する書簡を送った。
マウリシオ・トロ博士は、代議員における法案の報告者として、同法案が本会議に至る前に最初の障害に打ち勝たなければならない第7委員会の同僚たちとともに、その意見が非常に重要だった。
ジャイロ・ウンベルト・クリスト・コレア、ヘンリー・フェルナンド・コラーレ、マリア・クリスチーナ・ソト・デ・ゴメス、ファベル・ムニョス議員が署名した多数意見と、マウリシオ・トロ、ジャイロ・ジオバンニー・クリスタンチョ議員が署名した別の少数意見、の2つの賛成する報告が提出された。代議員議会第7委員会は5月21日の審議で討議を行い、多数報告書を承認した。
しかし、承認された文書は、禁止という言葉を根絶という言葉に置き換え、また、輸出のための採掘を認めることによって、あいまいな立場を示していた。数日後、輸出のための採掘なしの、全面禁止を追求する最終戦が、代議員本会議で行われることになる。
今回は、フアン・パブロ・ラモスとダニエル・ピネダがGreenpeaceとともに、議論に非常に注意して、議員に全面禁止の必要性と世論の支持を説得することに対応し、発言者がアスベストの禁止と輸出なしを固める言葉を用いた文書を受け取っているように管理した。
アスベストフリーな将来に向けて
決定的な日は6月11日の火曜日にやってきた。代議員本会議は140票対0票の満場一致の決定で、コロンビアにおけるアスベストの禁止が達成された。あとは、両院の議員を示して、法案を調整し、各々の議会で再度投票し、大統領が認可できるようにする必要があるだけである。
これらの手続は迅速に行われ、6月13日木曜日に代議員が法案を承認し、先週17日月曜日には元老院が同じことをした。法案はコロンビア大統領の署名を待つのみであり、われわれは間もなく実現するものと信じている[編注:実現済みである]。
コロンビアにおけるアスベスト禁止運動の構造は、このプロセスに参加したわれわれすべてに非常に重要な教訓を残している。時にはすぐに具体的な事実がない場合に懐疑論が示されるが、もっぱら経済的利益を擁護する少数派に反対して人間の命と健康を守ろうとするとき、小さな行動を通じたしっかりした断固として持続的な共同の行動を、関係者の集団的勝利を阻もうと望むもっとも力のある者たちを打ち負かすことのできる強力な波に変えることができるということである。
※スペイン語だがFUNDCLASのウエブサイト(https://fundclas.org/)に関連資料多数
(安全センター情報2022年4月号)