芸能界で働く人の労働安全衛生と社会保障:森崎めぐみ(一般社団法人日本芸能従事者協会代表理事/俳優)/2025.9.20 全国安全センター第36回総会記念講演

私は、一般社団法人日本芸能従事者協会と全国芸能従事者労災保険センターいう二つの労災保険特別加入団体の代表をしております。私自身はずっと俳優をしてきました。
私は芸能界の労災をなくして安全にしたいと思って、一念発起して活動をしています。まさかこういう場にお呼びいただけるようになるとは夢にも思っていなく、今日は本当に嬉しく思っています。ありがとうございます。

はじめに

私は、長い間、俳優として活動してきました。テレビ、舞台、映画など幅広く経験してきましたが、実家はいわゆる「早稲田小劇場」と呼ばれる劇場で、演出家の家族や、デザイナー、ダンサー、映画制作に携わる親族がおり、幼い頃から文化芸術の現場を身近に見て育ちました。一方で、家庭の中には、企業の社会保障制度のもとで働く姿もあり、社会保障がしっかり整備された環境と、そうでない環境の両方を自然と見比べるような経験をしてまいりました。
生活の場と表現の場が同居する、少し特殊な環境で育ったことで、芸術に携わる人々も、きちんと生活を成り立たせるための保障を得たり、自ら求めたりする必要があるのではないか、という思いを、若い頃から抱いていました。しかし現実には、この業界では長らく「怪我と弁当は手前もち」「親の死に目には会えない」「芸術家は労働者ではない」という考え方が強く、労災保険についても、必要性が十分に理解されていない時代が長くありました。
私自身、労災保険制度の必要性を訴えて活動を始めた当初は、制度を整えても「必要ない」と言われることもあり、大変苦しい思いをした時期もありました。活動を始めてからおよそ5年になりますが、特に最初の1、2年は、理解を得ることが難しく感じることも少なくありませんでした。
ただ、近年は状況が少しずつ変わってきていると感じています。現在は、他業界を経験した上で芸能分野に入ってくる方や、一般家庭で育った若い方も増えています。そうした方々からは、「なぜ労災保険がないのか」「最低限の報酬基準はないのか」といった、社会一般では当たり前とされている疑問が自然に投げかけられます。一方で、芸能界特有の厳しい働き方に直面し、早い段階で離れていく方がいるのも事実です。
現在の現場を支えているのは50代以上、場合によっては90代にいたることもあり、例えば舞台やスタジオなどの技術スタッフは、高所での作業が日常的に行われています。こうした過酷な労働環境が、限界に近づいているのではないかという危機感を、私たちは強く持っています。
そのような問題意識のもと、私たちの団体では、理想とする芸能活動のあり方として、第一にセーフティネットの整備、第二に心身の健康の確保、そして適切な仕事量と収入、さらに安全を前提とした健康づくりを掲げて活動を始めました。従来の慣習からすれば、違和感を持たれる考え方かもしれませんが、持続可能な芸能分野のためには不可欠な視点だと考えています。
現在では、さまざまな団体や関係者の皆さまにご賛同をいただき、芸能プロダクションを含む多様な立場の方々が参加する互助的な組織として、当協会は成り立っています。

岩波新書『芸能界を変える』出版

このたび、岩波新書より『芸能界を変える--たった一人から始まった働き方改革』という本を上梓いたしました。「芸能界を変える」というタイトルは編集部の方で付けてくださったものですが、私自身は、果たして自分の取り組みがそのように評価されるものなのか、いまも考えながら活動しております。
令和3年には、アニメ制作受遺者、柔道整復師などが特別加入労災保険の対象となりました。その中でも芸能分野は加入ニーズが高く、現在、全国で約1,000人弱の加入者がおり、そのうち約半数が当協会を通じて加入しています。
私たちの活動は、この制度を「使えるものとして機能させること」にあります。日々の現場では、小さな怪我から精神疾患まで一つひとつ丁寧に向き合い、必要に応じて労災申請を共に行っています。また、事故やハラスメントを背景とした深刻な事案においては、遺族へのグリーフケアなど、長期的な支援が必要になることもあります。
こうした実態を踏まえずに制度だけが独り歩きしてしまうことへの危機感から、これまでの経緯や考え方をきちんと記録として残しておこうと考え、執筆に至りました。約10万字に及ぶ作業は決して容易ではありませんでしたが、その必要性を強く感じていました。
本の帯には「そこは無法地帯だった」という言葉が使われています。強い表現ではありますが、個人事業者は労働基準法の適用外であり、それ以外の分野においても明確なルールや保護が十分でなかったという現実を端的に示したものだと受け止めています。
目次には、「NOと言えないハラスメント」「誰にも守られない働き方」といった、労災保険や安全網が存在しなかった時代の実態を取り上げています。続く「セーフティネットをつくる」では、労災保険や安全衛生、契約の整備といった社会保障の構築について記しました。「まっとうな契約へ」では、フリーランス法の制定を含む制度の前進を扱っています。また、「メンタルヘルスケア」では、心の問題がいかに現場と密接に関わっているかを整理しました。最後の「未来をつくる白書」では、過労死等防止対策白書において、初めて芸能分野のデータが政府の資料として掲載されたことを取り上げています。この点については、私自身、大きな感謝とともに、非常に大切な成果として受け止めており、その思いとデータの意味を本の中に記しました。

幼少期-家と外のギャップ

「なぜ、このような活動を続けているのですか」と、よく質問を受けます。
私自身は、いわゆる「お嬢様育ち」というわけではありませんが、当時の家庭の判断で、キリスト教系の私立学校に通うことになりました。いわゆる伝統校と呼ばれる環境の中で、芸能に関わる家庭の子どもである私は、周囲との違いに強い違和感を覚えながら過ごしていました。学校では規律や価値観の異なる生活が求められ、そのギャップに幼いながらも苦しさを感じていました。表現の現場と、一般的な生活空間との差異を、身をもって体験してきたことが、私の原点にあります。

芸能の現場で「働く」ということを考える

このような経験を踏まえ、「この状況のままで本当に良いのか」という問題意識が芽生えました。私がこの活動を続けることができた力の一つは、海外との連携があったからです。こちらの安全センターの皆さまも、国際的なネットワークを大切にされていると伺っていますが、諸外国の取り組みを知ることで、「これは日本でも実現できるはずだ」という確信を持つことができました。
諸外国では、ユネスコの「芸術家の地位に関する勧告」を軸に、芸術家の地位や社会保障を支える法制度が整備されてきました。
カナダ、ドイツ、フランス、韓国などでは、失業保障や社会保障、権利保護を含む制度がすでに確立・発展しています。
デジタル時代を見据え、EUのAI法や「文化的表現の多様性条約」など、国際的な法的枠組みも広がっています。
一方、日本では、実演家の権利や安全を包括的に守る制度はいまだ十分とは言えません。
芸能従事者の権利と安全を制度として位置づけることは、国際的に見れば特別な要求ではなく、共有された基準だと言えます。

「芸能従事者」の特殊性

「芸能従事者」という言葉は、労災保険の特別加入を国に要請する過程で、実態を整理する必要から用いてきたものです。
芸能分野には、俳優や歌手などの実演家だけでなく、制作・技術・運営など多様な職種が存在し、一人で複数の役割を担う人も少なくありません。
映画や舞台の現場には数百に及ぶ職種が関わり、芸能は極めて高度で複合的な「総合芸術」の産業です。
一方で、その技能は徒弟制や口承によって受け継がれてきた側面が強く、体系的な公的教育制度は十分とは言えません。
芸能の仕事は、長い修練を前提とする歴史ある専門職であり、「誰でもすぐできる仕事」ではありません。
また、自由な働き方というイメージとは異なり、時間や場所の拘束性は非常に高いのが実情です。
公演や放送の一瞬に合わせるため、過密な準備や長時間労働が常態化しています。
その結果、事故や健康被害のリスクが高い現場であることを、私たちは当事者の声として把握しています。

労災保護対象になっていなかった

芸能従事者の仕事は、このように本質的に危険を伴うにもかかわらず、長らく厚生労働省が定める労災保護の対象外とされてきました。
例えば、サーカスや大道芸の分野では、火を扱う演目や高所・倒立での演技など、非常に高い危険性を伴う行為が日常的に行われています。マジックやイリュージョンにおいても、刃物を用いた演出など、外から見る以上に高度な安全管理と専門的な技能が求められる場面が多くあります。こうした演技は、長年の訓練によって成立しているものであり、決して「安全だから行われている」ものではありません。
これは決して例外的な話ではなく、芸能従事者が日常的に直面している現実です。高い専門性と身体的リスクを伴う仕事でありながら、長年にわたり制度的な保護が及んでこなかったことが、芸能分野の大きな課題であると考えています。

表に出はじめた労働災害の実態

労災保険を作ってから、実態の報道がやっとでてくるようになりました。
私たちのデータだと、毎年、実演家の方-表に出る方もスタッフの方も-だいたい6割から7割くらいが「仕事中に怪我をしました」と言っています。

安全衛生の状況をまとめる

私たちの調査では、徹夜作業の経験が66.7%、寝不足による事故経験が50.8%に上り、芸能現場が慢性的な長時間労働と睡眠不足にあることが明らかになりました。
この実態を踏まえ、厚生労働省への要請に際して、現場事故を整理した「芸能従事者資料」を作成し、ヒアリングに臨みました。
資料には、撮影や公演に伴う死亡事故や重篤事故が多数含まれており、芸能従事者にも労災保護と安全衛生対策が不可欠であることを示しています。
※「芸能従事者資料」:https://www.mhlw.go.jp/content/11201250/000973618.pdf
このときに私は名前を付けないといけないので「芸能従事者」という呼び方を作ったのですが、なぜ「従事者」としたかというと、フリーランスではあるので、フリーランスとしての保護もほしいなと思いつつ、ただ労災というのは労働災害なので、私たちはワーカーズ、従事者ですという誇りを持って「芸能従事者」という名前を付けました。そういった働きかけの後に、以下のようなニュースが出ました。
(ANNニュース映像)
「政府は全世代型社会保障制度の検討会議で、中間報告を取りまとめました。新型コロナウイルスの感染拡大でフリーランスの労働環境の改善が求められる中、企業に雇われていなくても労災保険に加入しやすくなるよう対象を拡大します。また、新型コロナ対策として経済状況の悪化に伴う雇用や生活への支援を強化することも盛り込まれました。」

労災保険の特別加入を実現

芸能分野の多職種・複業という実態を踏まえ、「特定作業従事者」として実演家とスタッフを包括的に対象とする特別加入制度が実現しました。準備や稽古、打ち合わせ、移動なども補償対象に含まれ、実態に即した制度となっています。

全国芸能従事者労災保険センター

この制度を現場で機能させるために設立したのが、全国芸能従事者労災保険センターです。
一方で、業務災害が「契約に基づく作業」と整理された通達の文言から、口頭契約や包括的契約が多い芸能界の実態では、認定から漏れる可能性があるという課題も浮かび上がりました。

適正な契約へガイドライン

文化庁調査では、業務委託契約書を交わしている人は少数にとどまり、これを受けて安全衛生も含めた契約ガイドラインが2022年に策定され、私はこの検討会委員に就任しました。
※「文化芸術分野の適正な契約関係構築に向けたガイドライン(2024年改訂版)」:

https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/94127901.html

芸能業界の重層下請構造

芸能分野の仕事は、制作、企画、調整など複数の主体が関わる中で進められており、取引関係が重層的になりやすい特徴があります。
その結果、実際に現場で業務を担う人ほど、契約条件や安全衛生管理責任の所在が見えにくくなる傾向があります。

芸能事務所との取引等実態調査報告書

こうした取引構造全体を俯瞰する形で整理したのが、公正取引委員会による実態調査報告書です。
実演家を取り巻く複数の関係主体との取引実態が整理され、独占禁止法上の観点から留意すべき点が示されました。
その結果を踏まえ、「取引適正化に関する指針」が公表され、契約慣行を見直すための共通の基準が示されています。
詳しくは下記資料および、私が執筆した『公正取引』(2025年4月号)をご参照ください。
※「音楽・放送番組等の分野の実演家と芸能事務所との取引等に関する実態調査報告書」:
https://www.jftc.go.jp/houdou/pressrelease/2024/dec/241226_geinou.html
※「実演家等と芸能事務所、放送事業者等及びレコード会社との取引の適正化に関する指針」:
https://www.ushijima-law.gr.jp/client-alert_seminar/client-alert/20251002entertainment/

フリーランス法

こうした複雑な状況の中で制定されたのが「フリーランス法」です。
支払期限や再委託への規制など、一定の前進はありますが、短期・断続的な仕事が多い芸能分野では、制度が十分に活用できない場面も少なくありません。
現場の実態と法制度との間には、なお大きなギャップがあります。

ハラスメント・過労死

私たちが実施した調査では、ハラスメント被害や過重労働、深刻なメンタル不調が広範に存在することが明らかになりました。
こうした実態は、過労死等防止対策白書にも反映され、芸術・芸能分野は重点対策分野に位置づけられています。一方で、実効的な対策はまだ十分とは言えず、継続的な支援と相談体制が不可欠です。
※「文化芸術・メディア・芸能従事者ハラスメント実態調査アンケート」:
https://artsworkers.jp/wp-content/uploads/2022/09/20220906.pdf
※「令和4年度過労死等に関する実態把握のための労働・社会面の調査研究調査報告書(芸術・芸能実演家調査)」:
https://www.mhlw.go.jp/content/11200000/001162756.pdf

健康管理ガイドラインと労働安全衛生法改正

ヒアリング等を重ねた結果、「個人事業者等の健康管理に関するガイドライン」が策定され、労働安全衛生法も改正されました。
熱中症対策の義務化など、芸能分野にも初めて安全衛生の枠組みが及び始めています。
当協会では、健康診断や相談につながる体制づくりも進めています。
※「芸能従事者の健康管理に関するガイドライン」:
https://artsworkers.jp/wp-content/uploads/2024/03/health_guideline.pdf
※「芸能従事者向け熱中症対策ガイドライン」:
https://artsworkers.jp/wp-content/uploads/2025/07/2a20dd4ec23c190c7f92936182971b73.pdf
※日本芸能従事者協会「総合ウエルネスサポートネット」:
https://artsworkers.jp/wellnesssupport/

これからの課題

制度整備が進む一方で、相談できずに孤立する人も、いまだ少なくありません。
当協会では、ハラスメントやメンタル不調、労災や契約に関する相談窓口を継続的に運営し、早期解決につながる仕組みづくりに取り組んでいます。
こうした現場支援と制度提言を両輪として、今後も活動を続けて参りたいと思います。

安全センター情報2026年3月号