【特集 アジア・ネットワーク】ケーダー惨事の30年
2023年5月10日
AMRC(アジアモニターリソースセンター)
ANROEV(労災・環境被害者の権利のためのアジアネットワーク)
WEPT(タイ労働環境関連患者ネットワーク)
TLSC(タイ労働連帯委員会)
TLM(タイ労働ミュージアム)
1993年5月10日、子供向けの人形や玩具を製造する工場の4階建ての複合ビルの4階では、約2千人が働いていた。ほとんどは若い女性で、顔を下に向けて、数多くの有名なブランド名の人形を製造する作業に集中していた。人形は世界市場に向けて輸出されるものだった。
それは午後4時のことだった。
しかし、その瞬間、世界中の人々に多くの幸福と笑顔をもたらす玩具を製造する工場が、188人の若い女性の命を奪い、469人の労働者を負傷させる巨大な炉に変貌するとは、誰も想像できなかっただろう。
■Bundit Thanachaisettavut氏(アロム・ポンパガン[Arom Pongpagnan]財団)
工場には、約4千人のケーダー[開達]労働者がいた。2つの工場が隣り合わせに建っていた。ケーダー・インダストリアル・タイランド株式会社とタイ・ジウフ[Jiu Fu]・インターナショナル株式会社。株式の大部分は香港、台湾、タイのCPグループからきていた。
■Somyat Pruksakasemsuk氏(元労働NGO活動家)
工場で火災が発生したとき、労働者は火から逃げることができなかった。なぜなら、労働者が物を盗むことを心配して、扉が施錠されていたからだ。この場所の労働者は地上階から抜け出すことができず、ほとんどが亡くなった。
2階、3階、4階の人々は建物から飛び降りなければならず、障害を引き起こした。
これは、常に経済の拡張を強調してきたタイの工業開発の歴史のなかで発生した最悪の火災だった。しかし、その成長の恩恵は主に富裕層にもたらされたものである。
より悲しむべきことに、この工場は以前にも三回火災事故を起こしていた。
今回は、ある男性労働者が1号館地下1階の倉庫にたばこの吸い殻を捨てたことが原因だと主張された。事件全体のスケープゴートになったのは、この労働者だった。
■Rasami Supaaim(元ケーダー労働者)
最初に火事がはじまったとき、守衛は自分でそれを消せると考えた。誰にも火災が起こっていることを話さなかった。彼は、変圧器かエアコン、扇風機がショートしたのだと思った。そのようなことは普通にあった。定期的に起こっていたから。
しかし、この工場は、労働者の安全に十分な配慮を払ってこなかった。火災警報器は設置されていなかった。製造工程で使われている材料は燃えやすいものだった。そのため、火災がいったんはじまると、すぐに他の建物にもひろがった。
さらに、工場の鉄骨の骨組みは耐火基準を満たしておらず、急速に溶けはじめた。火災避難設備も基準を満たしていなかった。火災消火器も十分になかった。適切な防火計画も訓練もなかった。
■Voravid Charoenloet教授(元チュラロンコン大学講師)
タイは株式の15~20%を得ていたが、それは労働者のためにはならなかった。賃金を安く抑え、建築基準も満たさなかったため、利潤分配率はきわめて高かった。
■Jaded Chouwilai氏(男女進歩的運動財団)
ケーダーは非常に大きな損失で、非常に深刻なものだったことを理解しなければならない。家族が受け入れることのできない突然の死。死亡者のほとんどは女性で、子供がいた。多くの家族が壊れされてしまった。
■Somyat Pruksakasemsuk氏(元労働NGO活動家)
被害者のために補償を求める運動が生まれた。当時、ケーダー社とナコーンパトム[Nakhon Pathom]県が提示したのは3万バーツ[1バーツは現在約4円]だけで、私たちは非常に悪い提案だと感じた。3万バーツは水牛一頭の価格よりも低かった。
労働団体、NGOや大学研究者らが手を携えて、政府と使用者に、責任を認めて、死亡及び負傷した労働者と彼らの家族が速やかに、最低法定基準で必要されるよりも多くの補償を受けられるよう要求した。
彼らは、損失を被った人々-貧困にあえぐ労働者-が、ケースバイケースに個別に会社を訴えることに、運命を左右されることがあってはならないと主張した。
■Wilaiwan Saetea氏(労働組合リーダー、オムノイ[Omnoi]地区)
彼らがすでにもっている権利を実現するまで、様々なかたちでケーダー労働者を支援するキャンペーンを行なった結果、大学研究者とNGOのチームが会議を開いて議論し、労働安全衛生問題を推進する調整委員会を設置した。
「ケーダー労働者支援委員会」が設立されたのである。1994年にこの団体は「安全衛生キャンペーン委員会」に名称を変更した。Aruni Srito女史が議長を務めた。委員会は、安全衛生の改革のためのキャンペーンに一貫して、非常に重要な役割を果たした。
■Aruni Srito(労働安全衛生キャンペーン委員会議長)
労働運動は闘いを継続した。負傷者や重傷を負った者のためにはもちろん、育児のための、また、殺された労働者の死亡によって影響を受けた者のために補償が支払われるよう要求した。
政府は折れて、労災補償基金が病院での治療の費用を適切にカバーしていないことを認めた。
■Somyat Pruksakasemsuk氏(元労働NGO活動家)
われわれは、何人かの事故の被害者が香港に旅行するのを支援した。
香港では、現地の労働組合が、われわれがケーダー社と直接顔を合わせて交渉するのを助けてくれた。
こうした抗議の結果、補償を10万バーツ引き上げることができた。
■Somyat Pruksakasemsuk氏(元労働NGO活動家)
この闘いは、国際連帯キャンペーンの実例であり、この種のキャンペーンが首尾よく交渉力を高めることができた。
安全衛生キャンペーンの最初の成功として、労働省が「職場における安全、衛生及び環境のための委員会」と題した発表を行った。この発表は、1995年10月28日に発効し、それを通じて使用者と労働者の双方が職場安全に責任を負うよう協力する、初めて法的に認められた職場における労使組織の設立を提供した。
成功した職場安全衛生システムをもつ他の諸国の経験を検討した研究が行なわれた。ドイツのモデルが効果的であると考えられ、また、世界中の他の多く国で活用されていた。タイの労働運動と長年緊密に協力してきたフリードビヒ・エーベルト財団が、様々なグループの代表を結びつけ、ドイツに多数のスタディツアーに行った。さらに、ドイツの専門家も何度もタイを訪問し、地元の様々なグループや関係者と知識と経験を交流した。
職場で安全と衛生を保護するモデルは、予防に主要な重点を置いて、使用者と労働者が完全な参加の自由を与えられるべきことを強調したものだった。
■Aruni Srito(労働安全衛生キャンペーン委員会議長)
ドイツではそれをBGと呼び、使用者と労働者に労働安全衛生を管理できるようにする独立した団体である。
われわれはたったひとつの政府機関に頼ることはできない。われわれは、規則の発行、予算の監視、公正な予算の配分に参加しなければならない。
安全衛生キャンペーン委員会によって率いられ、Somboon Srikamdokkae女史に率いられたタイ労働環境関連患者ネットワーク(WEPT)とともに、安全衛生研究所を設立するための法律の起草の要求からはじめられた。
提案された安全衛生研究所の主要な原則は、選出された国、使用者、労働者、患者及び専門家の代表の五者が参加した機関によって運営される、自律的な政府機関であるべきだということである。とりわけ予防対策の確認に重点を置き、安全衛生問題に関わるための完全なブリーフをもつだろう。重要なことは、この機関が、労災補償基金からの資金移転によって資金調達され、完全な自由裁量権をもつことである。
中央集権的なタイの官僚主義の典型である労働省は、そのような原則に基づいた研究所の設立を認めることを拒否した。それは市民の参加を信じなかった。また、財政についても心配した。自己資金を負担しないにもかかわらず、外部の者が関わることを望まなかった。
■Ekkaporn Rakkwamsook(元労働次官)
画期的な発表第103号は国に、様々な問題に取り組む権限を与えている。したがって、悲劇的な出来事がなければ、国はいかなる行動もとらないだろう。
当時の労働運動リーダーは、政府に要求する書簡を提出するとともに、政府の取り組みを批判しようとした。当時の目標は、安全に専門に対処する研究所の設立だった。労働省、産業省または商業省自身でさえ、労働における不安全、そしてタイの輸出に影響を及ぼすかもしれないことを理解しなければならなかった。この流れは、新しい労働基準の開発の着手につながった。
このため、1997年憲法にしたがって、労働団体は5万人分の賛同署名を集めた。議会に法案を提出するために、労働団体によって提案された法案は、市民によって策定される先駆けだった。
必要な数の署名を集めることはきわめて困難であった。その後、「タイ患者ネットワーク」(WEPT)は貧民議会[Assembly of the Poor]とともに、安全研究所の設立を訴えた。
■Somboon Srikamdokkae(タイ患者ネットワーク(WEPT))
病気になった者に補償を支払え、労働医学環境部を設立しろ、そして労働安全衛生研究所を設立しろなど、たくさんの主張があった。ワーキンググループは、1997年憲法のもとで5万人分の署名があるべきだと考えた。しかし、法案は人民代表院によって検討されなかった。代表院は、文書は欠点があり、不完全だ、補助法によって確立された新しいルールを満たさないと主張した。
労働運動は闘いから降りることを拒否した。彼らは、選挙キャンペンの政策を活用すべく、様々な政党に対してキャンペーンを継続した。
しかし、実際にそれらの政党は、2011年に施行されるべく、労働省によって起草された、法律の1セクションだけ安全研究所の問題を含めた、労働安全衛生・労働環境に関する法案を支援するために戻ってきた。
安全研究所はこの法律によって2013年に設立されたが、労働運動と市民団体が共同で要求した精神と原則とは異なる、構造化された役割と権限をもつものだった。
■Wilaiwan Saetea氏(労働組合リーダー、オムノイ[Omnoi]地区)
国自身はまだ権力にあぐらをかいている。兄弟姉妹、労働組合の代表を阻み、様々な部門と同席することを拒んでいる。不安全の問題はそれゆえ解決できていない。直接の関係者の参加が無視されている。
■Bundit Thanachaisettavut氏(アロム・ポンパガン[Arom Pongpagnan]財団)
原因の最後で問題を解決するものでもある。しかし、職場の安全管理が現行の法律に十分沿っているどうかをけっして調べない。現実の労働状況と首尾一貫しているか、また、安全問題を持続的に解決するために問題を原因の根源で解決するかどうか。
■Jaded Chouwilai氏(男女進歩的運動財団)
労働安全問題の新しいランドスケープを得る方法は変わっているかもしれない。将来、工場労働者の数は減少し続けるだろうし、雇用もたくさん変わっている。われわれが要求することは構造化されている。それが、雇用パターンが変化しつつある労働者にとって、機能するかどうかという疑問が生じてくる。新たなプラットフォームはますます困難になっている。
188人の労働者の死からいまや30年が経過した。にもかかわらず、経済指標のみに焦点をあて、少数の者にのみ富を生み出す、産業発展には歯止めがかからない。
ケーダー惨事は最後ではなかった。過去30年間に同種の惨事が何度も起きている。中央集権化した国の官僚機構は民主主義を信じず、人々を信じない。血塗られた資本家の利益を追求するのみである!
今日、タイの労働者はなお資本家システムの欲と身勝手さの犠牲になるリスクに直面し続けている。
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