東日本大震災から10年【震災と惨事ストレス】連続オンラインセミナーの記録その2:菅原千賀子さん(東京医科歯科大学 大学院看護学科)

全国労働安全衛生センター連絡会議は、いじめメンタルヘルス労働者支援センター(IMC)と共催で3月に、「東日本大震災から10年【震災と惨事ストレス】連続オンラインセミナー」を開催しました。

趣旨は、「東日本大震災が発生してから10年を迎えようとしています。震災直後から、被害を受けながらも仕事を続ける大勢の人がいました。自分も被害者なのに他の被害者を援助し続けた人たちです。また、消防士や警察官などは全国から救援に駆け付け、全国の自治体からも被災地の自治体に支援の派遣がおこなわれました。セミナーでは、震災と惨事ストレスをテーマに、被災地の復興にたずさわる支援者の心のケア、健康対策について学び合いたいと思います」ということです。

現在、YouTubeチャンネル(以下にURLを記載)で視聴することができますが、IMCの千葉茂事務局長が講演に基づいて編集してくださり、今回、テキスト記録としてご紹介することができました。

■第1回:2021年3月4日 (https://www.youtube.com/watch?v=fDP6U3kPWLo&t=340s
講師:野口修司さん(香川大学医学部 臨床心理学科)
香川大学医学部臨床心理学科准教授。公認心理士。臨床心理士。2012年から6年間、宮城県石巻市総務部人事課にて常勤の心理士として職員のメンタルヘルス業務に従事した。

■第2回:2021年3月12日 (https://www.youtube.com/watch?v=fsR8Z9m3hY4
講師:菅原千賀子さん(東京医科歯科大学 大学院看護学科)
宮城県気仙沼市出身の看護師。東日本大震災の際に医療チームを結成し被災地医療支援に赴いた経験から、現在、東京医科歯科大学大学院にて被災地自治体職員の健康問題を研究テーマに取り組んでいる。

以下は、菅原智香子さんの講演記録です。

気仙沼市

気仙沼市は宮城県の最北端に位置し、人口は2017年11月現在65,067人です。産業は水産業と観光で、とくにマグロ、カツオ、サンマは全国有数の水揚げ高を誇っています。海と共に生きてきた町です。海からちょっと平地があってすぐに山という地形です。

2011年3月11日14時46分に震災に襲われます。沿岸部には遠路漁業のための重油のタンクがあります。そのため地震が起き、津波に襲われ、そして津波火災が起きました。

気仙沼市の被災状況

気仙沼市の被害状況は、津波浸水面積18.65平方キロメートルで市全体の5.6%です。被災家屋26,105棟。そのうち全壊16,459棟、大規模半壊2.307棟、半壊1.893棟、一部損壊5.446棟です。全体家屋数63,800棟ですので被災割合は40.9%です。被災世帯数は9,500世帯です。みな平地に住まいを構えていたのかがわかります。死者数1,033人、行方不明者215人、震災関連死108人です。全体で市民の約1.7%にあたります。

人口変遷は、当時は74,247人で、2017年は6万5千人に減っています。世帯数は26,601世帯から26,422世帯と減っていません。数世代が一緒に住んでいましたが、仮設住宅などに移るときに細かく分かれてしまいました。結果的に、高齢者の単身世帯が増えていきます。

第十八共徳丸は有名になりましたが、全長50メートル、330トンの船が港から800メートル陸に打ち上げられる状況でした。震災遺構として残す話もあったのですが、住民投票の結果、壊すことになりました。通常は海に並んでいる船がどんどん陸にあがっているという状況でした。

支援活動の様子

家族の安否は確認できたものの何かできるのかと悶々としていたら、みんなが手伝ってくれるというので、準備して行ってみようということにしました。災害医療の勉強をはじめたころで、研修に行かせてもらったりもしていました。当時は、医療者が現地に行ったら排泄物は持ち帰ってこいという教えでした。一切痕跡を残すなでしたので自分たちで何とか賄おうと準備して行きました。

薬局をしていた友人が「必要な薬を出します」とリストアップして揃えてくれました。

当時ガソリンがなく、さらに、許可証がないと高速道路は走れませんでした。トラック運送手をしている友だちに「ガソリンがない」といったら、「友人にヨットを持っているのがいるから、そこから抜いてくれば何とかなる」と調達してくれました。

17日に4人で、幌付き2トントラックで仮眠をとりながら出発しました。高速でも時速70キロくらいしか出せません。福島を通るときは、窓を閉めて、エアコンを切って走りました。

運転してくれた方が、町内から食料等を調達してくれていました。段ボールには、気仙沼にゆかりのない人たちの「応援しています頑張れ気仙沼のみなさんこん」と書いた紙が貼ってありました。「気仙沼のみなさまへ」と手紙を書いてくれた方もいました。これで私もどんなに元気づけられたか。

みんなの思いを載せて朝、気仙沼に着きました。

活動の実際:避難所

私の家は土台しか残っていませんでした。家屋は200メートルくらい流されていました。主要な通りは何とか通れるようになっていたのですが、細い道は瓦礫で通行できない状況でした。

市役所に医療支援チームとしてうかがいますと連絡したら快く受け入れていただき、DMAT(災害医療支援チーム)のみなさんと一緒に活動してくださいと言われたので市立病院に行きました。そこで「チーム菅原」として存在を示しました。

DMATとして避難所をまわると、東北の冬の寒い体育館にビニールシート一枚敷いて、その上に何とか持ってきた毛布を敷いて、ありったけの服を着て寝泊まりをしている状況がありました。

保健師がいたので「具合悪い人がいましたら診察します」といったら、「通常は薬を飲んでるのですが持ってなくて」という方がいました。血圧を測ると200を超えていました。「自覚はありますか」と訊いたら「なんともないです」。緊張状態のなかで自分の不調を自覚しにくい状態がありました。

このようなときに一気に血圧を下げてしまうと逆に具合が悪くなることがあるので、薬を出さずに様子を見たほうがいいと判断し、「できるだけ温かいところにいると血管が開きますので」とアドバイスをしました。災害医療では悪いからとすぐに治療をすると逆に功を奏さないことがあります。

市の施設には高齢者の方が避難されていて、塩分のきいたカップラーメンやおにぎりを食べ、トイレに行くのも躊躇している状況でした。これではいろん病気が悪化するなと思ったのを思い出します。

児童養護施設にも地域の高齢者の方が避難していていました。高齢者と子どもたちが同じ環境にいると、子どもたちの病気が高齢者を襲うことがあります。そういうことはないかと注意深くみていました。

地図上では市民会館と中学校、小学校は近いのでひとつの医療単位とみます。しかし、地域を知っていると、市民会館から中学校へは結構な高低差があり、階段を上るか砂利の坂道を上っていかなければなりません。具合の悪い人が本当に市民会館から医療施設のある中学校に行けるか実際に歩いてみました。DMATでは大丈夫といわれましたが、別と考えた方がいいですと、医療隊が増えてきたときに調整してもらいました。

市民会館は高齢者が多いです。日頃は自宅で介護されていた方も避難していて夜間に大きな声を出したり、徘徊したりすることがあるので介護の方たちが楽屋入り口の通路に並んでいました。「誰が介護しているんですか」と聞いたら、家族が順番でみていると。介護スタッフを派遣する必要があるのですがなかなか厳しく、気づきながらも支援が届かなかった思いがあります。

実際の活動:他分野との連携

アルコールの疾患があり、退院して1週間くらいの方がいましたが、薬もないということでした。ちょうど東京女子医科大学の精神科の医者が来てくれたので診てもらいました。当時、DMATは救命救急医がほとんどで、精神科、皮膚科、眼科、歯科は乖離していた状況でした。時間の経過とともに、これらの科の医師たちも介入してきました。

1人の医師が「私は酒とたばこをたんまり持ってきたので、誰か配る方いませんか」。私たちは医療とか、衣服、食料しか頭にありませんでした。この医師たちは、災害時には酒とたばこが必要なことを知っていました。私が「市役所の職員の方に配ってもいいですか」といったら、いいですと。

高齢者の方は急いで逃げてきたので、入れ歯がないので食べることができず、栄養状態が悪くなっていくということがありました。車に歯形をとれる設備を乗せて駆けつけてくれた歯科医もいました。

保健師の方が、「長期支援をしたいんですけどどんな感じですかね」と訪ねて来ました。

気仙沼は、平地から山になるという地形で、若い世代は平地で働いていたので職場に車で降りてきます。車は津波で被害に遭い、高齢者の方は山の上で身動き取れない状況にありました。そこで「山の上で孤立している方がいると思われますので行きませんか」といって、仮設の避難所の公民館に紹介しました。市民会館は大丈夫という思いがあったので、DMATに「医療隊を送りたいんですけど」と伝えて、旭川の部隊を配属してもらいました。実際に旭川の人たちは素晴らしくて、周囲も巡回してくれ、足が腐ってしまいそうな人たちをピックアップしてくれたりとすごい活躍をしてもらいました。

実際の活動:病院訪問

気仙沼には精神科の病院は2つありました。ひとつは被災し、3階建てしたが2階まで浸水しました。訪問して看護部長の方に「お手伝いできることありますか」と聞いたら「スタッフがずっと働き詰めなので交代できる要員がほしい」と話された。「わかりました、伝えてみます」と答えたのですが、なかなか手が届かなかったということがありました。

この病院は亡くなった方はいませんでした。看護部長に「サイレンが鳴るなかで避難とかにご苦労されたんじゃないですか」と聞いたら、「いえいえ、みな私たちの話を聞いてくれて助かったんですよ」と話されてました。「短時間のうちに1人の命も失わなかったというのは素晴らしいスタッフですね」といったら、看護部長は急にわぁーと泣きはじめて、私も一緒に泣きました。当時はやれることを無我夢中でやっていたというのが医療関係者の状況です。3階にすし詰め状態だったので、風邪が蔓延している状況があって、仙台市に遠隔輸送される方が出ている状況でした。

近くにあった整形外科医院はすべて破壊されて、再開はいつになるかと思っていました。医院と地続きで公園があります。そこにテントを張って看護師が泥だらけの点滴を拭いていました。「ここで診療を再開されるんですか」と聞いたら、「待っている患者さんがいますから」と。

被災地自治体職員の健康問題はすべての人に悪影響を及ぼす

活動の実態:診療所の開設

DMATとしていろいろな避難所をまわっているなかで、市役所の近くに仮設診療所を建てたほうがいいと思ってDMATに相談したら、自分で展開するならといわれたので、個人的に市役所の方での活動をはじめました。なぜ必要と思ったかというと、市役所にも避難されている方がたくさんいました。あと、いろいろな手続きで市役所を訪れる人がいるので、その人たちのなかに健康のことで困っていたら寄れるところがあったらいいかなということです。

市役所のわきにプレハブがあったので、その一部を借りて、持っていった医療機材を拡げ、机を借りて診療所を開設しました。

実際に、地元の眼科の医院が被災されていて「診療の場所がないから一緒に活動させてください」といってきたので、半分内科、半分眼科とパーテーションで仕切りながら、診察をさせてもらいました。

眼科はすごく大事で、当時、汚泥が舞っていました。道路は黒っぽい泥に覆われましたが、3月の暖かい風が吹きあれると乾いて舞います。それを吸うとのどをやられたり、変な風邪をひいたりします。震災発生の時刻は、みなさん働いていたので、ワンデーのコンタクトの方は替えがなく、同じものを2週間くらい着けています。

私は市民の方を対象にと思っていたのですが、そのうちに市役所の職員が仮設診療所にちらほらと来るようになりました。市役所の職員も結構体調を崩しているのかなと思い、保健課の方に「市役所の方も是非利用してくださいとインフォメーションをお願いします」といったら「言ってるんだけどね、なかなかみな行かないんだよね」。これはどうしたらいいかと…。

方言で気さくに来てもらえるような看板を作ったり、座敷の避難所にいる人たちに「深部静脈血栓予防の足の体操をしてもらいたいんだけど」とアドバイスしてしてもらいました。

活動9日目 職員の健康調査開始

実際に市役所の職員は体調が悪くてもなかなか来てくれませんでした。こちらからいかなければいけないと思って調査票を作成して各部署をまわり、健康調査をしてみました。230人が協力してくれました。

多くのみなさんが血圧が高いといっていました。実際測ってみると高いです。

いったん大学にもどって、「教授、血圧が高いのを何とかしたいんですけど」といったら「じゃあもう一度調査にいってごらん」といわれたので、12月にもう一度血圧の調査をしてみました。

12月の調査には男性153名、女性66名、合計219人が協力してくれました。30代が34.7%で多かったです。自宅を被災された方が52.1%、身内を亡くしまいたという方が73.5%いました。

3月と12月の震災対応・夜勤業務と睡眠はどうでしたかと聞くと、3月は92.7%が災害業務に携わって夜勤をしていました。睡眠の状況はどうでしたかと聞いたら、3月は73.5%の人が眠れていなくて、12月になっても23.7%が眠れていませんでした。休みも満足にとれていない状況が12月も続いていました。

気分障害の有無

心の状況はどうかということで、「うつ病・不安障害のスクリーニング調査票」(K6調査)で調べてみました。絶望感や憂鬱感等など6項目について0点から4点までの5段階から選択します。0点から24点の合計点が高いほど気分・不安障害が高くなります。

中央値は7点でした。0~4点31人、5~9点35人、10~14点23人、15~19点8人、20~24点3人でした。

7点以上との関連については、人的喪失、3月・12月の災害対応業務あり、3月・12月の不眠あり、12月の深夜業務あり、20時間以上の超過勤務あり、震災時の体調変化あり、があげられます。

東日本大震災における自治体職員の血圧変化

血圧の状況は通常、「正常者」40.3%、「正常行値者」14.6%、「高血圧者」22.6%、「高血圧内服者」22.5%です。3月は、正常者38.7%、正常高値者20%、高血圧者33%、高血圧内服者8.3%でした。

12月は、正常者27.9%、正常高値者18.3%、高血圧者42.5%、高血圧内服者11.4%でした。高血圧者、高血圧内服者が増えています。
「収縮期血圧」の平均値は、3月134.1でしたが、12月は140.0、「拡張期血圧」は81.0と88.6でした。高くなっています。

当時は、災害後の血圧は6か月くらいで元に戻るだろうといわれていました。しかし約30%が通常よりも高くなっていました。その傾向は3月の正常者が高血圧者や正常高値者に移行しています。

そこで、3月の結果との照合に協力していただける方はお願いしますと要請したら、143人から承諾をもらい比較することができました。

3月に正常だった人が12月に高血圧者になっていて、同じく正常だった人が正常高値者になっています。「悪化群」「高値継続群」「改善・正常値」に分けると、3分の1ずつ悪化しています。3分の2が異常に高くなってつづいていました。

実際にどういう人が悪化または血圧が高い状況が続いていたかというと、男性であったこと、年齢としては40代から50代の人たちです。仕事として責務がずっと担っていた人の健康状態が懸念されるということがわかりました。

健診受診は震災後3年経過してから

体験を語ってもらいました。インタビューの内容は、①当時の担当部署・役割、②発災後の行動、③発災後の業務内容とその期間、④発災後つらかったこと、⑤当時の自宅や家族状況、⑥体調の変化の有無、⑦うれしかったこと、救われたこと、⑧他の自治体職員に伝えたいこと、です。

その中の40代の防災担当課職員の体験談の要旨です。

「(発災時すぐ)これは遂に想定されていた宮城県沖地震きちゃったなと。これは長くなるなということで、あと覚悟を決めて、やることだけ淡々とやっていくか…と。」

同僚たちが現実離れした光景を目の当たりにして驚いている様子を横目に、覚悟を決めて災害本部設営に奔走しました。一方で、刻々と変化する想定以上の浸水にとんでもない被害を予感し、恐怖をおぼえます。

妻の安否に関して、気にする余裕さえなく、津波に流された実父が偶然助かったことを知るが、実際両親と会ったのは2、3か月後のことでした。両親が自分が生きていることに涙を流して喜んでくれた際、気を配れる精神状態になかった自分を振り返り、“マシーン”と称しました。
「妻のことを言ったら怒られそうだけど、大丈夫だろう。ダメだったらダメだろうしくらい…。叔父が千葉からガソリンもって来てくれて…ここ(職場)にきて『良かった…』って泣きながら顔見てくれましたけど…『はいはいはい。今忙しいから…また後でね』って(笑)せっかく来てくれたのにひどいね。こっちに追われて、あんまり家族まで気にしなかった…。」

日々明らかになる死者数に、防災教育に従事していた者として不甲斐なさを抱きつつ、業務に従事していました。地域住民と共にきめた避難場所に住民が避難したがために90人が亡くなったことを後日知ります。上司はその被害に茫然自失となり1年後辞職しました。

「こいず防災担当もっと…なんか出来ることあったんじゃないかな…っていうのが、つらかったですかね…。」

「(半年後、異動を命じられた際は)感情的には、がぐーって感じでしたね。まだやることはいっぱいあるのにって。…(振り返ると異動は)良かった…のかもしれません。」

いま振り返ると、異動により苦情を請け負う機会が減少し、心身の健康が保たれたと考えています。異動後の業務は災害対応よりハードであったが、同様の業務をこなす上司を間近かに懸命に従事しています。

健診を受診したのは震災後3年経過し、“時間がとれる”と自覚してからでした。それまでは全部A判定だったのですが、初めて肝臓がE判定でした。1回病院に行って「まあ、まだ大丈夫でしょう」と言われて継続受診はしていません。震災後、1日3本栄養剤を飲んでいたことが原因と考えました。体力を保つため、過剰摂取はだめと知りつつ飲んでいました。

「(遺体処理を)職員に頼んでしまったけれども、それが心に引っかかったり残ったりしていなければいいな…と思いながら。…今、結構いるんですよ。役所で入院している人。そうなってもおかしくないのかな…って思いますね。」

自分自身は市民から直接叱責を受ける立場にはなかったことを考え、今なお復興計画に従事している職員はまだ心苦しい状況が続いていることを、推し量っています。

「(全滅した地区の)自治会長さんが何か月かして会ったときに『Aさんと課長と一緒に防災取り組みやってくれたおかげで、うちの地区でも助かった人いっぱいいたんだよ』なんて言うのを聞いて…そういうんで報われた。心助けられたんだかもしれないですね。」

震災前の地震の活動を肯定されたような思いに至ります。また様々な支援者・慰問者の前向きな提案に感動し、それだけで労が和らぎました。また、支援者の活動により子どもが活気づき、笑っている市民の笑顔に自身も癒されました。

「うちは本当に日本中、世界中からお世話になっているんで、せめてそういうのをお伝えして、防災対策に本気になって役立ててもらうための、一助になれば…それが被災自治体としての責任かなと。失敗事例もいっぱいありますから。」

自治体の人びとに伝えたいことは、災害対策業務に従事するために、心身ともに健康で信念を持ち、前を向き続ける力がひつようであること、貯えの大切さです。

被災自治体職員の心理的影響は遅発性となりやすい

体験から得られた示唆です。

発災後、自治体職員は自身の生活を顧みることもままならないなか、その使命感から住民対応を優先し、職務に従事し続けていました。一方で、被災者や同僚と自身の被災状況を比べ、職務中に自身の感情を吐露することをさけ、家族と共に過ごすことができない境遇に対し、負い目を感じていました。

そのような中で、被災者や市民、時にはマスコミから非難された経験を有し、やるせなさや疲弊感を感じていました。

これらのことから、被災自治体職員の心理的影響は遅発性となりやすく、被災ストレスの遷延化を生じやすいと考えられます。また職務の尊厳を喪失する可能性も有すると考えられます。


震災関連業務と通常業務が統合することにより被災地自治体職員の業務負荷は急激に増大し、加えて職員の被災や転居、病欠等により、慢性的で深刻な職員不足の状況が5年以上継続しました。終わりの見えない業務過多のなか、震災関連業務に従事し続けることで、定期検診を受診する機会を容易に逃したり、健診結果に問題が生じても適切な受診行為に繋げられていないことが考えられます。

一方で、過酷な災害関連業務に従事しながらも自治体職員としてのキャリア形成を遂げていたことを語った職員もいました。

その過酷さを支えたものとして

  • 自治体職員としての気構え
  • 協働した同僚の存在
  • 他者からの容認
  • 被災者の自立と復興・未来を信じる

などの要素がありました。

結論

照合の結果、わかったことです。

  • 災害急性期は適切は健康行動が困難になるため、自治体職員を対象とした仮設診療所を設置し、健康相談・スクリーニング等の支援を行うことが有効である。
  • 被災地の自治体職員は、震災の直後よりも9カ月経過した時点の方が血圧値が上昇していた。特に、中高年男性に上昇者が多く、災害対応業務が継続している特性を踏まえ、看護職者が職場に出向き長期的な支援を行う必要がある。

責務を持って働いている方は、なかなか医療にアクセスできなかったり、自分の体調不良を吐露できない状況があったので、何とかしていかなければならないと気づかされました。

その後もいろいろな資料を見てみると、自治体職員の健康状態は、年を追うごとに悪くなって休職、退職に繋がっていて、2016年になると精神疾患の休職は1.6倍になっていて、被災地の自治体職員の健康問題は短期的だけでなく、長期的に見ていかなければいけないんだと実感します。

被災地自治体職員の健康問題による影響は、被災地自治体職員の職員不足を深刻化させ、被災地の復旧・復興を妨げているだけでなく、被災地に暮らすすべての人々に悪影響を及ぼす、といえます。

看護の独自の機能

看護師の仕事は結構広いです。実際に看護師が看護教育とどのように教えられていること、いつも心にとめているヴァージェア・A・ヘンダ―ソンの言葉があります。

「看護とは、人びとが(病気であれ、健康であれ)自分の健康或いは健康の回復(あるいは平和な死)のための各種の行動、それらはもしもその人々が必要なだけの体力、意志力あるいは知識を持っていれば援助なしにすることができるであろう様な行動なのであるが、それらを遂行するのを助けることである。加えて、人びとができるだけ早い時期にそのような援助に依存しないですむようになるのを助けるのも看護の独自の寄与である。」

「看護師は欠けたところの担い手である」

いま私が考える災害看護は

「災害看護とは、災害によって生じる生命、生活への影響を最小限にし、人間の持てる回復力を存分に発揮できるように支えることである」

「また、(地球に生ける生命として)災害における影響を進化の糧とせしめる成長を助けるのも看護独自の寄与である」

です。そのような任務を担っていきたいと思っています。

安全センター情報2021年7月号

<動画記録>東日本大震災から10年【震災と惨事ストレス】連続オンラインセミナー:菅原千賀子さん(東京医科歯科大学 大学院看護学科)