アスベスト製造業:嘘の産業マリー=アンヌ・メンゲオ(ジャーナリスト), HesaMag, Spring 2023
アスベスト製造業者は、以前からその危険性を認識していたが、真実を隠すためにあらゆる努力をしていた。しかし、時が経つにつれ、こうしたリスクは、とりわけ関連する病気や死に直面した人々にとってあまりにも明白になってきた。多くの被害者がアスベストの全面禁止を勝ち取るために闘ってきたが、他の多くの被害者にとっては、正義を求める闘いはいまも続いている。
1977年、ベルギーのサンブル河畔にある小さな町オーヴェレで、アスベストの織物工場が債務超過に陥った。その結果、従業員たちは職を失った-しかし、アスベストはすでに彼らをしっかりとつかんでいた。カロミラ・スツと炭鉱労働者であった彼女の夫は、ともにギリシャ人である。彼女は、フォートル・エ・アミアンテ・ドーヴェレ工場で10年間働き、そのうち5年間はアスベストを紡いでいた。工場が閉鎖されたとき彼女は40歳で、すでに アスベストによる肺線維症の一種であり、炭鉱労働者を苦しめる珪肺症に似た、石綿肺に罹患していた。カロミラは、ベルギー職業病基金(FMP)のもとで、82%の障害手当を受ける資格を得た。彼女の同僚たちと同じように、彼女はアスベストが猛毒だとは知らなかった。
- 毎晩毎晩、疲れているように感じながら家に帰った。実際に疲れていた。すぐにベッドに入った。時には、何も食べずにまずベッドに入ろうとしたこともあった。とても疲れていたからだ。本当に具合が悪かった。でも、その理由がわからなかった。
- ほこりのせいだとは思わなかったんですか?
- いや、まったく思いつかなかった。
オーヴェレ工場の労働者たちは、何の情報も保護も受けなかった。地元の病院の肺の専門医は 彼らの石綿肺を診断した。当時、他の諸国、とりわけフランス及びイギリスと同様に、アスベストのリスクが明らかになったのは、労働者が関連疾患に直面したときだけだった。イギリスでは1931年、フランスでは1945年、その後ベルギーでは1953年に石綿肺はすでに職業病として認識されていたのであるから、このような状況だったのは、リスク防止と労働者の健康監視に責任を負う当局の怠慢によるとしか言いようがない。
長く続いた失敗
製造業がアスベストを使いはじめた19世紀末には、警告の兆候はすでに明らかだった。イギリスでは、アデレード・アンダーソンが繊維工場の監督官に任命され、そのなかには労働者の大半が女性であるアスベスト紡織工場も含まれていた。1898年付けの報告書のなかで、彼女は、「粉じんの有害な影響に関する広範な証拠がある[…]。顕微鏡で調べると、鉱石から出る粉じんはガラスのように鋭くギザギザしている。微量であっても、その影響は 有害であることが証明されている」と書いた。
彼女の最初の観察にもかかわらず、アスベストの使用は増え続けた。アスベストはあらゆる用途に使える「魔法の鉱物」となった。アスベストは継続的な産業革命の一翼を担い、その後、2つの世界大戦(兵器、軍艦、軍用機、ガスマスクを含む)、そして戦後の復興事業で大規模に使用された。アスベストセメントは、使いやすく、安価で、収益性の高い素材であった。
組織的な沈黙と激しいロビー活動
アスベスト業界は、アスベスト使用がもたらす危険性を隠蔽することで、そのビジネスを守ろうと精力的に努力した。1930年代後半、アスベスト製造のトップ企業であったジョンズ・マンヴィル・コーポレーションがアメリカで裁判を起こされたとき、同社は労働者の肺疾患診断に異議を唱え、アスベストの免責を視野に入れた調査を依頼した。その結果は、同社が期待していたものではなかった。アスベストは実験動物で発がん性が確認された。しかし、契約した科学者たちとの共犯関係において、結果は公表されず、あるいは発がんに関するすべての言及が削除された。20年以上もの間、アスベスト産業は、アスベストを扱う労働者のがんリスクに関する情報のほとんどをもみ消した。
しかし、1964年春、ニューヨークで開催されたアスベストの生物学的影響に関する最初の国際会議で、アーヴィング・セリコフ博士が、保温工組合のメンバーに対して実施したモニタリング活動のデータを発表した。半数ががんで-肺がんだけでなく、アスベスト曝露の指標となる胸膜のがんである中皮腫でも-死亡していた。
潮目が変わったと感じたアスベスト製造の多国籍企業(ジョンズ・マンビル・コーポレーション、イギリスのケープ・アスベスト社とターナー&ニューオール社、ベルギー・スイスのエタニット社)は手を組んで、プロパガンダを広める強力な手段であるアスベスト国際協会(AIA)を設立した。アスベストの主要使用国では、各国の衛星協会が協調して、同じロビー活動戦略を展開した。ベルギーでは、ベネルクス・アスベスト情報委員会(CIAB)が、「公的機関、科学界、労働組合、使用者・消費者団体と緊密かつ継続的に」協力していると豪語した。フランスでは、主なロビー活動組織は、製造業者と並んで、医師、科学者、労働組合活動家や公務員を勢ぞろいさせた、アスベスト産業が資金提供する非公式な委員会である、アスベスト常設委員会(CPA)であった。2005年にフランス上院がまとめた報告書によれば、「CPAは、アスベストへの曝露のリスクの重大さを首尾よく否定するとともに、その結果、フランスにおけるアスベスト禁止を可能な限り後退させた」。
製造業者は最終的に、より危険とされた青石綿(クロシドライト)の使用を中止することに同意したものの、プロパガンダを白石綿(またはクリソタイル、アスベスト生産の90%を占めていた)の擁護に特化させるためにそうしたのだった。彼らは、「アスベストの管理使用」理論を開発した。業界によれば、粉じんレベルを下げ、監視することで、アスベスト関連疾患はなくなるだろう。しかし、1977年当時、国際がん研究機関(IARC)は、すべての種類のアスベストを発がん物質として分類するとともに、それ以下であればがんリスクが増加しないという、アスベストへの曝露レベルを決定することは不可能だと感じていた。フランス上院の報告書によれば、この分野のフランス政府関係者は、アスベスト・ロビーによって「麻酔をかけられ」ており、また、この公的機関の一部に対する麻酔はフランスに限ったことではなかった。欧州で最初に制定されたアスベストに関する法律は、産業界の干渉を象徴するものであり、粉じん蓄積基準は甘く、しばしば誤って適用された。1980年代初頭、危険な製品の表示に慣例的に使用されているマークであるドクロと十字のマークの表示義務の可能性を回避するため、産業界は先手を打って、独自のラベル表示を行うことに成功したが、これは病気やがんに関する言及を意図的に排除したものであった。
当時、中皮腫やがんの症例登録を行っている国はほとんどなかった。そして、記録されていないものは見ることができなかった。統計データの欠如は、アスベストにって引き起こされた被害の実態を隠蔽することに貢献した。
被害者の声
アスベストがんが体内に潜伏し、最初の曝露から数十年たってから顕在化するという事実も、メーカーの思惑にかなっていた。1980年代初頭にようやく真実が明らかになった。イギリスでは、アリス・ジェファーソンがテレビのドキュメンタリー番組で自らの試練を赤裸々に語った。47歳のアリスは、中皮腫を発症して、いまや瀕死の状態だった。弱冠17歳のときに彼女は、ケープ・アスベスト工場で9か月間働いた。このドキュメンタリーはイギリスで大きな話題となり、イギリス議会は中皮腫の問題を取り上げざるを得なくなった。
アスベスト・ロビーに対抗するために示された回復力は、関連する仕事、市場や政策によって、国によって異なっていた。例えば、1970年代初頭にまでさかのぼって、デンマークはアスベストの使用を削減し、その後、アスベストセメントの製造を除いて完全に禁止した。この例外は、オルボーにあるエタニット工場の労働者に関する調査結果の発表を受けて、1986年に最終的に廃止された。元従業員のカール・ミューラーは、証言のなかで憤りを隠そうとしなかった。
- カール、あなたは何時間も、何日も、一言も発しないって奥さんは言っている。そうなのか?
- はい、そうです。
- どうしてですか?
- わからない、説明できない。
- 説明できない?
- 自分に腹が立つんだ、どうしようもない。
- 自分を責めるのか?
- そうだ。
- それはフェアだと思う?
- そうではないかもしれない、なんとも言えない。
- 誰が悪いかわかる?
- はい、でも彼らは手を挙げようとしません。それがこの気の毒な話の悲しいところだ。もし彼らが、「よし、ミスを犯した。それを正したい」[と言えば]。…健康は取り戻せなかいだろうが、私たちの心を休ませることができたと言えるかもしれない。
- 自分自身に対する怒りが薄れただろうと?
- そうだ。
- もし工場が認めてくれていたら…
- はい、もし彼らが「われわれは間違ったことをした。手を挙げる」[と言ってくれていたら]…でも違う。それどころか まるで私たちが悪いかのようだ!
1986年、ベルギーとスイスのグループであるエタニットが、北イタリアのカサーレ・モンフェッラートの工場を閉鎖した。トリノ大学の研究者たちは、工場労働者の呼吸器がんによる死亡率の過剰と、町の住民に中皮腫の患者数が異常に多いことを明らかにした。地元の労働組合は、すべての被害者を代表して闘うことを決めた。当時、地元の労働組合代表であったブルーノ・ペッシェは、「われわれは正義を求めるが、これは同時に、イタリアだけでなく世界のすべての国で、アスベストの加工と使用を止めなければならないことをすべての人、とくに当局に知らせるための公益の闘いでもあるのです。われわれはアスベストの全面禁止を望んでいる」と宣言した。
キャンペーンと裁判
カサーレの市民が闘ったキャンペーンの結果 イタリアは1992年にアスベストを禁止した。そして1995年、フランス最大の科学大学であるパリ大学ジュシューキャンパスにおけるアスベストの発見によって生み出されたスキャンダルが、フランスの世論を揺るがした。アンリ・ペゼラ教授はそこで、アスベストフロック加工の劣化によって発生した汚染問題の暴露に20年を費やした。ペゼラと同僚らによって確立された運動の影響はフランス全土に及び、1996年のアスベスト禁止、2000年のアスベスト被害者補償基金(FIVA)の設立、重大な過失を根拠とする大量訴訟全体につながった。フランスでは、使用者がアスベストの危険性を認識していた、または最新の科学的知見から知っていたはずであったにもかかわらず、その従業員を保護するのを怠り、重大な過失を起こしたと認められる場合には、従業員が使用者を訴追することができる。フランスで数千件の重大な過失による訴訟が社会保障裁判所で使用者を相手取って提起され、その結果、被害者やその扶養家族は、社会保障給付に加えて補償金を得ることができるようになった。
同じ1995年、ベルギーは、欧州委員会の本部であるブリュッセルのベルレーモンのアスベスト除去に関するスキャンダルに揺れた。ベルギーの世論はようやく、アスベストが有害物質であることを理解し、アスベストの危険性が工場の門の前だけでは終わらないということに気づいたのである。1998年、アスベストの大半の使用が禁止された。その2年後、フランソワーズ・ヨンケーレという勇敢な中皮腫患者が、多国籍企業のエタニット社を裁判に訴えた。ブリュッセル近郊のカペレ・オプ・テン・ボスにあるエタニットの工場で管理職を務めていた彼女の夫は、数年早く中皮腫で亡くなっていた。フランソワーズは工場で働いたことはなかったが、家族の家はその近くにあった。息子たちの肺もアスベストでいっぱいだと知って、フランソワーズは憤慨し、沈黙と引き換えに会社から提示された金銭的な取り引きを断った。「ノーと言った。そんなものはいらない。いつだったか誰かが、私は森全体を隠している木だと言ったけど、本当にそのとおりだ。だからいま何も言わずに傍観しているわけにはいかない…」。フランソワーズの死後、彼女の家族は、ベルギー・アスベスト被害者協会を設立して、彼女がはじめた訴訟を続けることになる。同協会の要求のひとつは、職業及び非職業(環境)被害者の双方に補償を行うことを目的としたアスベスト基金が設立された2007年に満たされた。
フランソワーズが起こした訴訟は、民事責任訴訟だった。イタリア、より具体的にはカサーレ・モンフェッラートでは、被害者協会が辛抱強く刑事訴追を求めてキャンペーンを行った。被害者の一人の妻が証言しているように、「この状況の不自然さは、働けるためには、同時に病気にかかるリスクを負わなければならなかったことだ。それは、近代国家、法の支配に基づく国家、社会的国家が許すことのできない、恐ろしい見通しであり、私たちは皆、それに対して立ち上がるべきなのだ。そしてまた、ここカサーレで、被害者の家族である私たちが闘わなければ和ならない」。「最大のアスベスト裁判」と呼ばれたこの裁判は、2012年2月、カサーレのエタニット工場の元取締役2人、スイス人のステファン・シュミットハイニーとベルギー人のルイ・ド・カルティエ・ド・マルキエンヌに16年の懲役が宣告されて、幕を閉じた。しかし2014年11月、これらの有罪判決は、時効を理由に最高裁判所によって覆された。その他の訴訟がまだ係争中である。
2017年、フランソワーズ・ヨンケーレが起こした民事訴訟において、裁判所は最終的にエタニットを有罪とした。ブリュッセル控訴裁判所は一審判決を支持し、「製造業者は少なくとも1960年代初頭からアスベストの危険性を認識していたが、彼らは積極的にアスベストの健康リスクを隠蔽しようとした」。しかし、この象徴的な勝利、残念ながら悲劇の終わりを告げるものではなかった。
終わりのない物語
欧州連合(EU)では2005年にアスベストの使用が禁止されたにもかかわらず、アスベストは毎年多くの被害者を出し続けており、2019年のアスベストによる死亡者数は9万人を超え、死者数はまだピークに達していない。
フランソワーズ・ヨンケーレの5人の息子たちのうち、2人は中皮腫のために、いずれも42歳で死亡した。ベルギー・アスベスト被害者協会会長である三男のエリックも、2021年に同じ病気で倒れた。ベルギーでは、被害者がアスベスト基金から示された補償を受け入れることを選択した場合、会社の「故意の違法行為」を立証しない限り、被害者は裁判所に訴えることができない。2022年、 エリック・ヨンクヒールと彼の弁護士は、エタニットを相手取って新たな訴訟を起こした[エリック・ヨンクヒールの裁判の最新情報については2023年12月号参照]。彼らは、彼の曝露とその後の病気に至った状況が故意の違法行為に分類されうることを証明することに絶対の決意を固めている。エタニットに対する故意の不法行為判決は、職業性疾病の被害者となり、同じ規則の適用を受けていたすべての労働者の勝利でもある。
フランスでも闘いは続いている。約1,800人の被害者とその家族が、最初の告発がなされてから約26年、アスベスト常設委員会(CPA)を代表して行動し、虚偽の情報を流してフランスでのアスベスト禁止を遅らせたとして告発された-管理職、上級公務員、実業家及び医師-14人に対する刑事裁判の開始を待ち続けている。これらの被害者にとって、正義はいまだ実現されていない。果たしてできるだろうか?
※https://www.etui.org/publications/time-act-asbestos
安全センター情報2024年3月号