ニュージーランドにおけるアスベスト禁止1936~2016年、80年に及ぶ物語/William Ivan Glass, et.al., IJERPH, 2017, 14, 1457

抄録:

ニュージーランド政府によるアスベスト含有製品の禁止は数多くの要因の相互作用の結果であった。個人レベルでは、アスベスト被害者とその家族、支援団体による取り組みがあった。政治レベルでは、職人、建設労働者や解体労働者などの危険な職業を代表する進歩的な労働組合グループがあり、政府レベルでは、そうした公衆衛生プレッシャーに対する積極的な対応があった。2016年の輸出及び輸入に関する禁止令(アスベスト含有製品)はこの80年に及ぶ長い物語の結果であった。

1. はじめに

ある国が別の国の経験から学ぶことはめったにない。まして、ある国が自らの過去の経験から学ぶことはほんとどない。2016年のニュージーランド政府による輸入を禁止する決定は瞬間的な出来事だった。この決定がなされた理由は、過去数十年にわたって起きた、様々な出来事の相互作用と影響をみる必要がある。

そのような出来事と影響は、それらが常に充分であったとは限らないことを含めて、振り返ってみれば徐々に影響を増加していったことがわかる。何か他のこと、より劇的なしばしば悲劇的な出来事、または立法過程に結論をもたらすような出来事が必要である。

2010年9月4日2011年2月22日と、6か月という短い期間に南島のカンタベリー地域を2度の大地震が襲い、また、これら2つの自然災害の間の2010年11月19日に、今度は南島ウエストコーストの地下炭鉱で大爆発が起こったニュージーランドの場合が、これに当たるだろう。これら3つの出来事は多くの命を奪っただけでなく、地震の場合には建物、家屋、道路や地下構造物、鉱山ではその恒久的閉鎖という膨大な物質的破壊をもたらした。

2. 1936年-ニュージーランドにおけるアスベストの健康上の危険についての最初の認識

科学産業研究所によって発行されたブレティンNo.57にはアスベストの危険性についての最初の言及が含まれていた。当時の委員会の委員長は、保健省の公衆衛生部長T.R.リッチー博士だった。その言及は以下のとおりだった。

「アスベスト作業では、生み出される粉じんが、いくつかの点ではそれに似た病気を引き起こす珪肺とその性格は異なるが、石綿肺として知られる肺の状態を増加させる。」

興味深いことは、このコメントは、すでに約30年以上にわたってアスベスト含有製品を加工・製造していた国であるイギリスで、クック、グロイン及びミアウェザーがアスベストの危険性に焦点をあてるほんの数年前だったということである。ニュージーランドのアスベスト時代はまだはじまっていなかったが、この簡単な文章は著しく知覚的であったようにみえる。産業と政府はあらかじめ警告を受けていたわけである。

3. 1936~1966年 無対応の時期

1943年に最初のアスベスト・セメント工場が設立されたものの、アスベストを取り扱う作業の危険性に対する政府によるさらなる対応はわずかであった。2つの例外があり、第1は、以下のような、1944年の政府に対する報告書のなかの、ニュージーランドにおける産業衛生に関する簡単な指摘だった。

「…様々な粉じんへの曝露(有機性及び鉱物性、シリカやアスベストなど、後者のいくつかは特定の胸部疾患を引き起こし得る…)」

この報告書は、200以上の工場を訪問して特別の勧告を行った著書によるもので、勧告のひとつは、最初のアスベスト・セメント工場を訪問した結果、「アスベストの取り扱いに関連して局所排気装置を提供する」必要性を、彼が指摘したことだった。このコメントはその後、対策のために労働省の地元支部に送られ、以下のように、1年後に対応が記録された。「セメントとアスベストが使用される混合設備の上に、適切な抽出ファンを付けた大きなフードが設置された」。

アスベストに対する第2の言及は、1951年に、「アスベスト砕石」という表題のもとで、保健省の年次報告のなかにあらわれた。

「アスベストはいまドミニオンで砕石されつつあり、適切な対策がとられない限り、粉じんが一定量の肺の損害を引き起こすことが予想される。それは、珪肺に合併する結核ほど急速にではなく、また高い発症率ではないものの、シリカによって罹患する珪肺といくらか似た状態を生み出す。他方、アスベストは、シリカよりも、より発がん性のある粉じんのようにみえる。」


クリソタイル・アスベストはネルソン地域の商業数量の蛇紋石のなかでみつかった。採石は1963年を通じて継続した。

したがって、1936年の最初の警告から30年間、アスベストの健康上の危険性について産業または人々に警告する政府による活動はわずかであったということである。いまや数百人の労働者を雇用する2つの大きなアスベスト・セメント製造工場があったとはいえ、乳製品工場、製材所や発電所はすべて保温材としてアスベストを使用し、多数の会社が鉄骨や家屋の天井にアスベストを吹き付けつつあった。さらに、いまやアスベスト・セメント製品がすぐに使えるようになり、それらの使用が居住用、商業用及び市民用区域における建設業で拡大しつつあった。アスベストと配合品の使用のこの増加と同時に生じた健康リスクが、早くてほこりっぽい切断プロセス-スキル・ソー(のこぎり)の導入だった。

4. 1966~1969年 アスベスト・セメント産業、クライストチャーチ

この期間中に、アスベスト・セメント製品会社が保健省と労働省双方の関心を引き付けた。会社の訪問及び会社と2つの省の間のコミュニケーションが何度も行われ、そのひとつは以下のようであった。

「製造ラインのはじまりでは、ある従業員がアスベストの袋をホッパーに投じ、これが計量されるとい開封される。それはずいぶんほりっぽい仕事のようにみえ、石綿肺の可能性という点で、従業員を保護するためにはいくつかのかたちの抽出はあってはならないと思われた。」

1944年にこの報告に対して何か対策がとられたのだろうか?この20年以上にわたって何かが忘れられてきたのだろうか?またはこれは職場慣行のより一般的で重大な失敗を示しているのだろうか?すなわち、「制度史」の欠如、よい手順と経験を記録することの失敗、そのためばしば健康と命を犠牲にして安全な作業方法を再学習しなければならない。

5. 1968年 ニュージーランド建設労働組合

この頃、建設業におけるアスベスト含有製品の使用の増加を懸念した建設労働組合は、その雑誌「ニュージーランド建設労働者」に一連の詳細な記事を掲載した。それらは、オークランド支部長のオーストラリアの姉妹組合訪問に基づくものだった。それは政府を含め、何らかの組織が、労働者とその家族、幅広い一般の人々にアスベスト曝露の健康リスクを警告した、はじめてのことだった。

2年後の1971年に同労働組合の全国書記長は保健大臣に対して書面で、アスベスト鉱物のなかでクロシドライトの割合は低いことから、ニュージーランドにおける曝露労働者の健康リスクは相対的に低いとする、同省の見解を問題にした。書記長は、この見解はいまや異議を唱えられていると指摘した。

建設業の労働組合がリーダーシップを発揮した。これはなぜか?なぜなら、労働関連疾患の被害者としての労働者が最初に気がついて、作業と病気とを結びつけたからなのか?または、彼らが経験を共有して、同じ仕事をしていてともに病気になった「ジャック」または「トム」を知ったからなのか?

6. 1971年 政府の対応。全国アスベスト調査、1969/1970年、保健省労働衛生部報告書(ウエリントン)

この調査は、ニュージーランドの201人のアスベスト労働者について、1969/1970年の2年間にわたって行われた。調査には、粉じん測定、胸部X線と肺機能検査が含まれた。報告書は制限付き、秘密と表示され、出版されなかった!

調査がはじまる前に保健省労働衛生部の副部長は、ジェイムズ・ハーディ社の主任医務官から、オークランドのアスベスト・セメント工場を含めた同社のオーストラリアでの活動を通じた、会社によって行われた従業員に関する健康・曝露監視プログラムの詳細を概述した書簡を受け取った。

保健省報告書の簡単な要約は、アスベストについて、12繊維/cm3に等しい、2mppcf(立方フィート当たり百万粒子)閾値限界値(TLV)を用いると、71人の労働者が0.3~10mppcfの範囲の許容できないレベルで働いていた。合計101人の労働者が胸部X線を受け、17人が胸膜の変化を示し、1件の石綿肺があった。喫煙の測定可能な影響があり、また、以前に示されていた知見である、マオリ(ニュージーランドの先住ポリネシア人)と欧州の労働者の間に違いがあったものの、肺機能について曝露時間の明らかな影響はなかった。また、調査は実施が困難であり、いくらかの企業といくらかの労働者から完全な協力を得るのが困難であったことが記録された。このことは結果に見ることができる。

結果は、以下のとおりだった。

  1. 産業は、可能な場合には、アスベストの代替物を探すことを勧められた。
  2. 従業員は包括的な医学検査と進行中の監視を受けることになった。
  3. イギリスにおける1969年の規則の線に沿ってアスベスト規則が策定されるべきとされた。

この10年間の終わりまでに、政府、建設労働組合及びいくつかの賢明な会社は、労働ハザーズとしてのアスベストと健康リスクに焦点を当てはじめ、粉じん管理及び健康監視措置を導入した。

1973年に最初の調査の中心だったアスベスト・セメント工場がそうした製品の生産を中止した。

7. 1973年に提案され、1978年に発行されたアスベスト規則

保健省の調査及び勧告の結果として、保健省は労働大臣に対して書面で、特別のアスベスト規則の必要性を勧告するとともに、イギリスの1969年アスベスト規則をモデルとすべきことを示唆した。これは、バルクを収納する店舗や倉庫など、1969/1970年調査に含まれていなかったアスベスト使用分野を労働省が調査するという条件付きで、合意された。

このプロセスは様々な段階を通じて進んだが、建設業におけるアスベストに対する労働組合の懸念に対応する緊急の必要性が高まっていた。利用可能な唯一の法令は、アスベストに特化したものではない、1959年建設法と1961年建設規則だった。結果は、建設業における安全のためのアスベスト・ガイドを策定するという労働省の決定だった。その一方で、規則の土台は大気中のアスベスト・レベル及び労働者の医学的検査に集中することであるというこの段階での考え方ととともに、規則に対する取り組みも継続した。1978年に新たな規則が発行された。

なぜこの起草プロセスはそんなに遅かったのか?このときまでに、アスベスト曝露の健康リスクを確認した海外からの十分な証拠があり、この声明が「本省は、この鉱物の吹き付け、切断、破砕や加工に伴う危険性を完全に認識している」としているように、これはいまや労働省によってよく知られていた。

政府の認識はあったが、まだ緊急性はないようにみえた。規則を策定することによって、時とともに大気中のアスベスト曝露レベルを制限していくことと、角閃石系とクリソタイルの間のそのレベルの違いをなくしていくことを除いて、さらなる対応の必要性は減少した。

労働におけるアスベスト粉じんへの曝露を管理することを基礎にしたこの一方的なアプローチは、産業界のそのような曝露を測定する手段や衛生ノウハウが限られている場合には、実際にはほとんど紙の上にしかないのに、表面的には実際的な何かが達成されつつあるようにみえることを意味した。あすべうとは、(1986年まで)アスベスト・セメント製品の製造に使用し続けられ、建設業、保温、ブレーキライニングや様々な製品に広範に使用し続けられた。

8. 1984~1990年 労働組合がイニシアティブ

以下のような新聞記事とともに、焦点は政府から労働組合に移った。

「採石労働者に隠されたアスベスト・リスク」。この報告は、農業肥料のために蛇紋石を石灰石と混合することと、保健省が労働省にリスクを知らせるのに失敗していることに言及していた。

その一方で、技術者組合の雑誌Metalは、「殺人者を突き止める-アスベストの物語」というフルページの記事を掲載した。
1984年、2人の労働医学専門家を代表してオークランド労働組合評議会安全衛生センターから、アスベスト関連疾患診断のための保健省の手順に懸念を表明した書簡が、ニュージーランド労働組合連盟書記長に届けられた。

技術者組合は、全国テレビで放映された「アリス、命のための闘い」のフィルムを入手する決定を行い、取り組みを継続した。再び、なぜアリスのフィルムについて組合がイニシアティブをとる必要があったのか?と質問する必要がある。なぜ政府からリーダーシップがこなかったのか?

9. 1988~1990年 南島労働組合の調査

この調査は、地元のアスベスト・セメント工場に雇われてきた組合員が関係するアスベスト関連疾患・死亡に関する人々の懸念の高まりに対する組合の応答だった。86人の組合員がレビューされ、全員が何らかの時期にこの工場で雇われていた。合計13人が中皮腫、3人が肺がん、7人が石綿肺、1人が慢性閉塞性肺疾患(COPD)、1人が膵臓がんで死亡していた。いまも生存している者のうち、1人が中皮腫、3人が肺がん、4人が肺以外のがん、6人が石綿肺、21人が胸膜変化、8人がCOPD及び9人が詳細不明の肺の変化があった。短期間についての地元の病院からのこうした個々の事例と組合のアンケート調査によって確認された新たな事例の調査によるものをまとめることは、それらをひとつの報告制度に「点滴注入」するよりも、大きな影響を生み出すやり方だった。

10. 1988~1990年 被害者とその遺族が声を上げる

保健省の報告書(1969/1970年)の約20年後にやってきた、個々人の悲しみ、怒りや不安のこの噴出は、多くを少数の新聞記者の献身に負っていた。アスベストに対する人々の認識は、中皮腫による痛みを伴う死の悲惨な話や、既知の健康リスクに対処するのに失敗した思いやりのない使用者と無対応な政府を非難する涙の未亡人が現われるにつれ、毎週成長していった。この個々の関心のピークは、政府電力公社を退職したある技術者が、法的変則性のゆえに補償を受けられずに、政府に対して個人訴訟を起こしたときに起きた。

10.1. 1989~1993年 ロビン・マッケンジーの事例

マッケンジー氏は、31歳の1940年から1981年の退職まで、国の電力公社雇用された。1989年に彼は初めて呼吸器症状が現われ、中皮腫の診断につながった。当時の労災補償法のもとで、彼の曝露が同法が1974年に発効する前であったことから、請求する権利がなかった。結果的に彼は、高等裁判所の王冠に対する過失において、請求をする慣習法上の権利があることを確認するために、上訴裁判所の許可を求めた。1992年に200万ドル求めるこの請求がはじまったとき、マッケンジー氏は生存していた。1993年に法廷外和解が成立した。ひとつの成果は、請求が1973年4月より前に提起されることを条件に、他の被害者が法的請求を開始することができることになったことである。被害者はいまや災害リハビリテーション・保証協会に対して請求を提出するという選択肢をもった。この事件は、ニュージーランドにおけるアスベスト曝露の歴史を発展させるうえできわめて重要だった。

10.2. 1988~1990年 クラリー/テルマ・ベルの事例、クライストチャーチ

この事例も、ロビン・マッケンジーの事例と同様に、大きなメディアの注目を集めた。

テルマ・ベルは、アスベスト・セメント工場で生涯働いたあとで中皮腫によって死につつあったクラリーの妻だった。テルマは、夫のアスベスト曝露の状況について公けにした。これは、クラリーの同僚らが、労働条件がどのようなものであったかについての彼らの話に、等しいグラフィックイメージを追加することにつながった。

1980年代半ばから末にかけてのこの活動のすべてが政府に影響を及ぼした。労働大臣ビル・バーチは、患者と人々双方の関心事に対応した。また、別の要因もあり、彼の選挙区には、パイプの保温材のかたちのアスベストで「いっぱい」だった石炭火力発電所であるハントリー発電所が含まれていた。バーチ氏はよい地元の下院議員としても対応していた。その成果は報告書だった。

11. 1991年 アスベスト:労働省アスベスト助言委員会の報告書

大臣は1990年に報告書を開始して、1991年にそれを受け取った。報告書が仕上げられたスピードは、コンベナー(招集者)キース・マクリーに対する贈り物であったが、すべての報告書と同じく誰をも満足させるものではなかった。それは、174事例の中皮腫と数のわからない肺がんに石綿肺を加えて、いまやアスベスト関連疾患の大きな流行であることを認める、大きな前進だった。結果は時間とともに悪化するだけだった。

報告書の重要な成果のひとつは、2つの部分の全国アスベスト登録-どちらも自主的なものだが、時とともにその価値を示した、疾患登録と曝露登録-の設立だった。登録を管理するために、労働省は医学パネルを設立した。

12. 1992年 アスベスト登録

報告書に続く10年間に、継続的な関心のレベルと、政府、いくつかの大企業、労働組合及びアスベスト支援団体による取り組みがあった。

登録の2つの部分、曝露と疾患は、重要な職業病に関するいくつかの有意義な統計を作成するために、初めての機会とともに、報告の急増をみた。情報はいまでは、業種、職種、曝露、疾患の種類、性別、民族、喫煙及び肺機能について収集されるようになった。訪問した海外専門家による発表として、年次報告書と特別報告書が発行された。時とともに通知に対する熱意が落ちはじめて、件数が減少した。これにもかかわらず、登録の2つの部分は25年後のいまも継続して、曝露登録は2万件以上、疾患登録は1,500件含んでいる。それゆえ、そこから55年以上前の管理されない曝露の労働者に対する影響を評価するための有用な調査研究の基礎が存在している。

13. アスベスト支援団体

アスベスト支援団体の発展は、1980年代後半にメディアに劇的に記録された、患者や家族の関心から生まれてきた。ウェリントン、クライストチャーチ及びオークランドで団体が設立された。それらの機能には、幅広い諸問題について政府部局や個々の会社との対話を追求するための、医療支援や補償請求の進め方についての家族に対する援助や助言が含まれている。進行中の教育は、とりわけ理解することのできるかたち及び言語で、アスベストに関する技術的情報を再生産するために、重要な活動だった。オークランド支部は、学校や家庭におけるアスベストへの非職業曝露や、廃棄されたアスベストで汚染された地盤上への家屋の建築にまで拡張した、より幅広い問題を取り上げた。

14. 2010~2011年 2度のクライストチャーチ地震、パイク・リバー災害

3つの出来事はすべてすでに言及しており、後から考えると、その後の部局再編とアスベスト立法に重大な影響を与えたことが明らかである。

緊急かつ広範囲に及ぶ解体及び損傷した建物の除去は、当初は、コンクリート、れんが、プラスター、アスベスト保温材またはアスベスト・セメント製品かどうか、解体製品の性質についての関心は少なかったが、すぐに、トラックの車列が過去に家だったものを処分場へ運んでいくにつれて、人々の関心を高めた。損害を受けた場所のクリーンアップに対する理解できる対応としてある程度受け入れられた、当初の関心はすぐに、より進行中のアスベスト問題、すなわち2つの地震によって損害を受けた家屋を改修・修理する必要性が続いた。この時点で、アスベスト含有天井の性質及び作業を実施すするうえでの注意に関して、家屋所有者の現実的関心があった。結果は保健省と労働省双方による重要な対応だった。

前者は当初、1997年に策定された文書に依拠した。これは後に、非職業環境の者に対するアスベスト曝露の潜在的リスクを最新化するための、アスベスト技術的助言グループの設立が続いた。重要な結果のひとつは、ニュージーランドのアスベスト含有製品の輸入及び輸出のインベントリーの要求だった。その結果は、アスベスト含有製品の輸入を禁止する政府の決定だった。

同時に労働省は、アスベストに関する監督のスキル向上、アスベストに関する新たな規則の策定から、アスベスト除去作業者の登録・訓練要件の改善に至る範囲に及ぶ諸問題をレビューするために、本省に多数の内部グループを設置した。

カンタベリー地域の土地にいる間、同省は同地域における活動を調整するために上級管理者を採用した。主要な成果は、カンタベリー再建安全憲章の制定、再建中に建設業で生じる可能性のある健康関連問題の大学による文献レビューの要請、及び進行中の解体、家屋改修やインフラ修理に伴うアスベスト関連健康リスクに焦点を当てるための職場、朝食会議やセミナーの集中的プログラムだった。後に、市民及び住宅の高層構造物についてより高い基準を要求する、建築基準の厳格化が加わえられた。

この政府の取り組みが加速された期間中に、首相がその主任科学アドバイザーに対して、ニュージーランド王立協会と協力して、重要かつ画期的な文書である、「ニュージーランドにおけるアスベスト曝露:非職業リスクについての科学的証拠のレビュー」報告書を作成するよう要求した。

2つの地震はアスベスト問題にこの大きな影響を与えたが、2つの出来事の間に、パイク・リバーのウエスト・コーストの地下炭鉱で大爆発が起こった。結果として生じた質問が、労働省の安全衛生機能をレビューするという政府の決定のつながり、それが職場安全衛生の規制者の役割を行うための新たな国家機関、ワークセーフ(WorkSafe)の設立につながった。

15. 2015年労働安全衛生法-2016年アスベスト規則

2015年までに新たな労働安全衛生法が実施され、2015年労働安全衛生法第222条に基づき職場・娯楽・安全第人によって主任された、2016年労働安全衛生(アスベスト)規則と2016年アスベスト管理及び除去のための認証実施基準(ACOP)が続いた。

したがって、2010/2011年から2015/2016年という比較的短い期間中に、政府と、とりわけ労働省、保健省、環境保護庁及び環境省は、アスベスト含有製品の禁止、労働及び非労働領域におけるアスベストの惨劇への対応、及びアスベストを含有する環境の改修、除去及び解体を管理するための法令及び実施基準の導入に関して、多くのことを成し遂げた。

16. 結論

80年の物語はその終わりにたどり着いた。出来事と影響が議論され、最後に、アスベスト曝露により疾患を発症し、死亡した者とその家族が、その沈黙を破って公けの場に出て「十分」と言うに至るまで、リーダーシップがどのようにひとつの機関または団体から別のものに移っていったかを示した。おりにふれて少数の献身的なメディア関係者からの熱烈な支援なしには、彼らの任務ははるかに困難だっただろう。それは、被害者とその家族、記者に、彼らがしたことをする勇気を与えた。

医学専門家はどうだったのか?労働者の健康に関する問題について声を上げることについて一般に知らないなかで、彼らの対応は当初はたしかに弱かった。これは疑いなく、疾患の因果関係における機能のひとつとしての「労働」や、潜伏期間が結果を隠すことから早い時期に生じたアスベスト関連疾患の少数の事例について、訓練を欠いていることを反映したものだった。1990年代になってさえ、放射線科医は胸膜プラークを石綿肺として報告していた。

保健省と労働省も、傷害と比較して職業病を管理することが困難であることに気づき、あまりにもしばしば労働衛生は優先リストの一番下に落ちた。悲しいことに、胸部医学の部署もこの失敗から無縁ではなかった。結果は、診断、届出、記録及び分析は不適切であり、問題が容易な選択肢になるのを無視した。しかし、時がたつとともに、地方の医学雑誌に報告が現われはじめた。

最終的に、政府はその指導的役割を果たし、ほとんどのアスベスト含有製品を禁止した。政府は外部の圧力に対応した。最後には、こうした変化を成し遂げるには、証拠ベース以外の何かが必要だったのであり、より深く、より基本的な何かが関与したという感覚がある。それは、取り組んでいる人々、とりわけ危険な仕事で働いている人々への尊敬、被害を被った人々への思いやり、そして最後には、われわれは兄弟の番人ではないのか?という認識である。

アスベスト使用のリスクにいまもなお直面している開発途上諸国の役に立つかもしれない、いくつかの示唆が本論文から浮かび上がってくる。第1に、健康リスクとしてアスベストを根絶するために認識及び行動するよう、政府に対する圧力を維持することの重要性。第2に、アスベストの健康リスクに関する情報に人々がアクセスできるよう確保すること。第3に、経験と解決策を共有するために、個々人、研究者及び政府の諸国間の交流を促進すること、である。

※原文:https://www.mdpi.com/1660-4601/14/12/1457
筆者は、William Ivan Glass1*, Rob Armstrong2 and Grace Chen1
1 マッセー大学公衆衛生研究センター、ニュージーランド
2 呼吸器科医、ニュージーランド *責任筆者

安全センター情報2023年7月号