危険の外注化と闘った「2019年の李小仙」 2019.12.29

趙英来弁護士は1976年夏に「全泰壱評伝」で、全泰壱烈士のオモニ・李小仙女史について次のように書いた。「50年前、ある労働者の死はそのお母さんの人生を変え、その後も永らく社会を揺るがした」。李小仙オモニは何度もの警察の連行にも拘わらず、闘争現場で最前線を守り、歴史に残った。
労働者の子供を巡る母親の歴史は、繰り返されている。2018年の泰安石炭火力発電所の非正規職労働者キム・ヨンギュンさんの死は、母親のキム・ミスクさんの人生を根こそぎ変えた。息子と同じ社内下請け非正規職労働者だったキム・ミスクさんが、息子の死の前で見せた態度は半端ではなかった。多くの産業災害の遺族が、会社の言いなりに合意するのと違って、キムさんは「真相究明」求めた。「キム・ヨンギュンさんが行くなと言った場所に行き、するなと言った仕事をした」と言う会社の管理者の話が、まったく受け容れられなかったからだ。
キムさんは息子の同僚らと一緒に、労働者の命を軽く見る企業・国・社会との永い闘いを始めた。それまで労働組合には近付いたこともなかったが、労働現場の劣悪な現実を知らせることができるならと、労組と市民対策委員会の集会には洩れなく参加した。各種メディアのインタビューと寄稿の要請にも、寝る間も惜しんで応じた。産業安全保健法が国会で審議される時は、3日間、会議場の前でソワソワし、また他所から産業災害の知らせがあれば、遺族を慰めるために全国を駆け巡った。その結果、毎年労働者2000人が命を失う労働安全の現実に、市民はこれ迄のどんな時よりも大きな関心を寄せた。これが28年振りの産業安全保健法の全面改正、石炭火力発電所の非正規職労働者の処遇改善にも繋がった。
その過程でキムさんは多くの慰労を受け、希望を見たと言う。息子の死の直後に訪ねてきた世越号の遺族は、静かにキムさんを抱いた。特性化高校の実習生として仕事をして亡くなったイ・ミンホ君のお父さん、サムソン半導体職業病被害者のファン・ユミさんのお父さんファン・サンギさんとハン・ヘギョンさん母娘も、多くの慰安を与えた。共に悩み、支援を惜しまなかった労組と市民対策委の役割も大きかった。
京郷新聞は2019年の今年の人物としてキム・ミスクさんを選んだ。2月のハンファ大田工場の爆発事故の遺族に会ったキムさんは、「ママは立派だ」という遺族の話に、「私も3ヶ月前までは普通の小母さんだった。ママだから子供の口惜しさを解かねばならず、私にできることはこれしかなかったので、しただけだ。誰にでもできることだから、勇気を失うな」と話した。

2019年12月29日 京郷新聞 イ・ヒョサン記者