草の根の視点から見た韓国のアスベスト禁止-なぜそれが起こったのか?

ペク・ドミョン(白道明)他

Domyung Paek, et.al., IJERPH, 2017, 15, 198

抄録:

韓国では2009年、日本の支配下でアスベスト鉱山が最初に開かれてから約70年後に、ついにアスベストが禁止された。アスベスト産業の歴史を、長い間の規制及び健康影響とともに示した後に、われわれは、変化の文脈を提供するために、現在のリスクシステムが誰によって、どういう目的のために、どのように管理されているかに関するナラティブ[物語]分析を構築した。

われわれは、自由放任、政治的-技術的、経済的-管理的、健康志向的-文化的、及び、人権に基づくポスト文化的リスクシステムの、5つの異なる段階を確認することができる。アスベスト禁止につながる変化は様々な段階で進化するとともに、各段階の変化は最終的禁止に到達するまでに必要だったのであり、そこにおいては様々な範疇の潜在的代替策を検討することによって以前の問題を解決することなしには、最終的禁止は可能ではなかったか、または開始されたとしても持続しなかっただろう。アスベスト禁止は、合法的な政治的窓、経済的合理化、健康リスク保護、及び人権感覚を含め、これらの問題に対するすべての代替策が利用可能になったときに導入することができる。

われわれは、われわれがもった代替策は完璧なかたちではなく、多かれ少なかれゆるく結合されたかたちであると考えており、それゆえ不完全性を補うために、様々な関係者の間の連帯を構築する方法を知らなければならない。

1. はじめに

韓国では、原料アスベスト及びアスベスト製品の製造、使用、及び輸入は、2007年から2年間の猶予の後、2009年に禁止された。これは、アスベスト・セメント製品の最初の製造から約50年後、日本の支配下でアスベスト鉱山が最初に開かれてから約70年後のことだった。職業曝露と関連した中皮腫の最初の診断は1993年になされ、その因果関係が公式に認められてからでさえ、禁止を実施するまでに15年以上かかった。

ここでわれわれは、韓国におけるアスベスト産業の歴史を、とりわけ安全衛生の側面について示すとともに、各期間における付随した社会的及び行政的変化について説明する。

われわれは、原料アスベストを直接扱う産業、アスベスト採掘及びアスベスト製品製造業の活動に焦点をあて、アスベスト製品の輸入・輸出とともにアスベスト消費の時間的傾向を検討した。

次にわれわれは、その間における主要産業における大気中アスベストの曝露レベルとともに、アスベスト規制における変化を検討した。安全衛生影響自体については、われわれは、アスベスト関連職業病の公的認定事例及び一般人口における年間中皮腫事例を検討した。アスベスト禁止後、アスベスト曝露の環境被害者が補償されはじめたが、われわれは環境アスベスト問題の現状も要約した。

そうした変化が生じた理由を分析するなかで、われわれはまず、各期間において変化に寄与したすべての関連する諸問題と関与した関係者を確認し、その後そうした諸問題と関係者を一連の特徴的段階に分類した。

各段階を説明するなかで、われわれは、変化の文脈を提供するうえで、諸問題が現行のリスクシステムのもとで-誰によって、どのような目的で-どのように管理されたかについてナラティブ分析を構築した。ここでわれわれは、予見可能な将来のためにリスク管理のサブシステムを包含するより大きなシステムを保持できるようにするよう、主要なシステム関係者の安全衛生に対するリスクを予測、実行及び検査するためにリスク管理システムを概念化した。

新たな安全衛生問題の出現によって証明されるように、リスク管理システムの予測に失敗した場合には、われわれは、現出しつつある諸問題に対して追求された代替策、及び、リスク管理システムがある段階から次の段階に変化した理由を確認しようと試みた。

韓国では、当初は何の問題も主要な関係者も存在せず、それゆえリスク管理は「自由放任」の状態であった。この最初の「自由放任」状態の後、一連の諸問題が現われ、リスク管理システムの技術的、管理的、及び文化的側面の変化、そしてその後安全衛生状態におけるポスト文化的変化の検討を促進した。

われわれは、こうした諸問題をめぐる問題に取り組むなかで、主として関係者の政治的、経済的、健康志向的、及び人権に基づく介入によって代替措置が形成されたことに気づいた。

これら2つの特徴、主要な問題の性質及び主要な関係者の種類に基づいて、われわれは、自由放任、政治的-技術的、経済的-管理的、健康志向的-文化的、及び、人権に基づくポスト文化的リスクシステムの、5つの異なる段階を確認することができる。

2. アスベスト問題及び管理

2.1. アスベスト産業とアスベスト利用

1930年代に、日本海軍の造船における使用のためにアスベストが初めて採掘された。1945年の第2次世界大戦終結後、すべての採掘は中止され、新たに独立した韓国では、朝鮮戦争後の1950年代に初めてスレート産業のために初めて再開された。1960年代から1970年代のさらなる工業化の間、アスベスト採掘は、とりわけ都市部の伝統的屋根の刷新のために、アスベスト・スレートの需要増大のために、持続した。しかし、費用、量及び質のために、国内産アスベストは放棄され、とりわけカナダからの相対的に安い輸入によって置き換えられ、1983年に最後のアスベスト鉱山が閉鎖された。その後、2000年代に、閉鎖された鉱山及び輸送のための古い鉄道駅施設周辺の地域が、以前の採掘活動によって残されたアスベスト廃棄物によって汚染されていることがわかった。

建材、摩擦材、紡織、及びガスケットの製造が原料アスベストを使用する主要な産業であり、自動車及び他の重工業の成長とともに、アスベスト製品の需要は、1990年代初めまで増加した。上述したように、アスベスト・スレートや他の建材の製造は、1950年代に開始された。アスベスト紡織業は1960年代後半にはじまり、日本で労働安全衛生法が施行される直前の1971年に、日本の紡織業工場が外国からの投資という口実のもとでその機械を移転した。その後、迅速かつかなり監視の悪い工業化のただなかに、ドイツ企業もこの危険な産業の移転に加わった。結果的に、アスベスト紡織工場は、1990年代初めにインドネシアや中国に移転した。その一方で、造船、建設、配管・暖房、自動車整備、その他の機械操作など様々な産業が、2000年代初めまでアスベスト製品を幅広く使用した。

1990年代後半から韓国における原料アスベスト輸入とアスベスト製品製造が減少したことから、製造されたアスベスト製品の輸入が代わって、2006年まで増加した(図1)。アスベスト禁止の前10年間にアスベスト代替産業が拡大して、アスベスト禁止の時点では、韓国で原料アスベストを使用する産業はほぼなかった。

2.2. アスベスト規制及び諸問題

韓国におけるアスベストに対する規制は、1981年に労働安全衛生法が制定されたときにようやくはじまった。それ以前は特別な規制は存在しなかった。しかし、アスベスト製品の製造は登録して政府の許可を得なければならないと法律が規定したとはいえ、1987年に職場環境測定方法(大臣告示86-46)が発行されるまで、大気中アスベストの定期的測定はなされなかった。

1986年にアスベストの職業曝露限界が2繊維/ccに設定され、その後、2003年に0.1繊維/ccに引き下げられた。しかし、1987年の調査による職場におけるアスベスト・レベルは、とりわけ紡織業において、曝露限界よりもはるかに高かった(図2)。その後繰り返された測定によって1990年代に、曝露レベルは1繊維/cc未満にまで低下した。

1997年にクロシドライトとアモサイトが禁止されたが、禁止の時点ではそれらの使用はすでになかった。

トレモライト、アンソフィライト及びアクチノライトのアスベスト様繊維は2003年に禁止され、2009年についにクリソタイルが禁止された。禁止後、アスベスト含有製品の定義について論争が噴出した。労働部は2007年に、アスベスト製品の下限値を1%から0.1%に変更した。しかし、2008年に環境部がアスベスト含有とみなされるために用いた定義は、X線検出限界値の0.5%に基づいて、なお重量で1%のアスベストのままだった。2009年に環境部は、アスベスト含有タルクについてこの定義を0.1%に拡大した。

2.3. アスベスト問題及び予測

最初のアスベスト関連中皮腫症例は、1993年にある女性労働者で診断され、あるアスベスト紡織工場における19年間の労働という単一の職歴に基づいて、すぐ1994年に労働関連と認定された。

続く数年間のうちに、石綿肺及びアスベスト関連肺がんが報告された。しかし、2002年に2例目の補償が公式に承認されるまでに8年かかり、アスベスト関連疾患について補償される事例数は、いまもなお年20件未満のままである(図3)。欧州諸国と比較すると、認定されたアスベスト曝露による肺がんの件数(年10件未満)及び割合(50%未満)は、相対的に少ないままである。

図3 2002年から2014年の間の韓国におけるアスベスト関連職業病の補償件数

2013年時点で、一般人口における悪性中皮腫の発症率は、男性について2.8/10万人・年、女性について1.55/10万人・年で、男女比は1.9:1であった。他の先進国と比較すると、悪性中皮腫の発症率と男女比は相対的に低い。年齢・コホート・期間モデルに基づいて、これは今後20年以上増加し続けるものと推計されているが、年齢標準化発症率よりも年齢構造の変化のほうが今後の推計された素発症率の大きな増加に貢献すると予測されている。

2011年から、任意の場所の、十分な居住歴をもつ肺がんまたは石綿肺、もしくは悪性中皮腫の環境被害者が石綿被害救済法によって補償されるようになった。

2014年からびまん性胸膜肥厚が補償対象に追加された。2017年12月現在で、914件の悪性中皮腫、409件の肺がん、1,474件の石綿肺、及び4件のびまん性胸膜肥厚を含め、2,801件が補償された。

全補償事例の約半数がアスベスト曝露の職業歴をもっているが、曝露の適格基準及びじん肺診断技術の違い(労災補償についての単純X線対環境救済についてのCT)から、労災補償の対象になれていない。居住歴の要求事項を考慮しても、肺がんの補償件数は、中皮腫または石綿肺と比較して相対的に少ない。

3. 展開期間中のアスベスト問題の段階

全期間を通じて際立った問題に関する討論及び何を、どのように、誰が、なぜということに関するナラティブに基づいた、主要な変化の文脈の分析を通じて、われわれは期間全体を5つの異なる段階に分類した。

最初の段階「自由放任」の後、アスベストのリスクはまず、法律の制定というかたちでの、使用者に対する技術的措置の行政的執行によって管理された。執行の種類は大きな政治的決定であり、この「政治的-技術的」段階における主要な関係者は、技術系官僚と専門家に支持された政治家だった。この段階では、国の法令を含めた規範に基づく[code-based]アプローチに基づいた職場曝露測定というかたちのリスク評価が支配的であり、リスクの問題は、さらなる分析なしにデータ収集だけに基づいて構築された。

しかし、技術的措置を取る使用者の義務を制定した後、費用と質に関して義務付けられた技術のロジスティクスや実行可能性が大きな問題になった。

次の「経済的-管理的」段階の主要な関係者は、経済と管理の代替策を考案した者たちだった。曝露労働者のリスク手当など、労使交渉や企業方針に基づいたリスク管理が支配的になり、問題は、曝露限界に対する超過率など、加工された情報に基づいて計算されたリスクとして構築されたが、なお実証も検証もされなかった。

使用者と労働組合を含めた関係者によるリスクテイクの経済が被害者の出現によって安全ではないことが証明された後、リスク管理における文化的変化の必要性が自明になった。アスベスト禁止を含めた代替策が、主として健康志向的関係者によって形成された。この「健康志向的文化的変化」の段階では、現実の経験に基づいたリスクコミュニケーションが不可欠となり、問題は安全衛生リスクの性質に関する実証された知識とは無関係に構築された。

最後に、未来への教訓が実際の経験を取り巻く様々な角度から引き出されなければならないことから、補償、リスクの低減と一次予防を含め、安全衛生対策におけるポスト文化的変化の検討のための様々なニーズが必要になった。とりわけ、予防のかたちをとった用心深い対策が、人権に基づくアプローチなしには機能しないことがわかり、人権をアドボケートする者たちの役割が不可欠になった。

この「人権に基づくポスト文化的」段階では、リスクの評価、管理及びコミュニケーションの持続的サイクルが大部分の関係者にとって必須要件になり、問題は、とりわけ被害者の、具現化された知恵に基づいて構築された。以下の表は、安全衛生変化における5つの異なる段階の概観を与えている(表1)。

3.1. 自由放任期間(1980年以前)

1980年以前、アスベストは韓国では問題でなかった。 海外と接触のあるごくわずかな医学専門家を除き、アスベスト問題に特別の関心を払った関係者はいなかった。

3.2. 政治的-技術的期間(1981~1987年)

1981年に労働安全衛生法が、韓国における別の軍事政権への移行のただなかで導入された。

当時、特別な安全衛生問題は事前に生じてはおらず、安全衛生措置はむしろ政治的マヌーバーとして導入された。同様の文脈で、1984年にじん肺法が制定された。しかし、同法は1980年の炭鉱労働者の暴動によって制定されたことから、日本とは違って、一定の鉱物の鉱夫だけが対象とされ、アスベスト労働者は対象外のまま残された。

この政治的段階では、安全衛生問題は、政権を正当化する方法のひとつとして用いられた。労働安全衛生法などの国際基準は、労使関係の現状を維持し、潜在的な人権問題は無視しながら、安全衛生問題の技術的側面のみを強調して採用され、その結果問題を医学に限定した。
この段階では、技術系官僚と専門家が主要な役割を果たしたが、労働組合、市民団体、または被害者の声は聞かれなかった。リスクが高く費用のかかる採掘活動は曲線を描き、民主的なプロセスが阻害された安全衛生被害者が政治的自由に対する権利の行使を可能にするまでは、アスベスト鉱山はこの期間の中間で閉鎖された。

しかし、たんなる政治家による政治的操作ではない、合法的な政治的窓は可能ではなかった。1987年に韓国の人々の6月の民主化運動によって、独裁的な憲法が改正され、必要な場合に合法的な政治的窓を開けるための自由の基礎が築かれた。政治プロセスの民主化が最終的にこの政治的-技術的段階を終わらせた。

3.3. 経済的-管理的期間(1988~1994年)

政治の民主化の後、安全衛生問題がなだれのように政治分野の注目を集めるようになり、新たな労働医学、看護士や衛生専門家のトレーニングと安全衛生制度の再構築が議論の中心となった。

経済への関心の成長は、1990年代初めに相対的に競争力の弱いアスベスト紡織工場の閉鎖につながり、閉鎖された工場は結局規制のない諸国に移転した。この期間に、とりわけ経済分野において、グローバリゼーションが拡大し、自動車産業は輸出用車両に対してアスベストフリーのブレーキライニングを採用する一方で、造船業は新たな船舶にアスベスト製品の使用を避けなければならなかった。この意味で、たとえそれがその後1991年に裁判所によって覆されたとはいえ、1989年のアメリカ環境保護庁(EPA)のアスベスト段階的禁止規則は貿易パートナー諸国にとって重要であった。経済活動が国際化するにつれて、技術、管理、貿易、訓練・教育の法的基準などを含め、安全衛生の代替策も、限られた規模としても国際化され、アスベスト代替産業はこの期間中に一層成長した。

この期間に、政府当局者、専門家や労働組合が主要な役割を果たし、彼らの間で安全衛生問題はしばしばハザードインセンティブや雇用保障に変形した。例えば、アスベスト・ガスケットを使ったマフラーを製造する自動車組立労働者は、交渉を通じていったんはハザードインセンティブとしての臨時所得を受け取った。しかし、この寛大な態度はすぐに、最初のは1993年の完全に予想外だったが否定しようがない診断事例のかたちで、またその後、疫学的証拠のさらなる蓄積とともに、アスベスト問題の実証によって揺さぶられ、潜在的なアスベスト健康リスクが最終的にこの管理的-経済的段階を終わらせた。

3.4. 健康志向的-文化的変化期間(1995~2009年)

具体的な医学的問題の出現によって健康リスクの認識が覚醒されるにつれて、経済的-管理的段階は健康志向的文化的変化に移行した。この覚醒は韓国では、第1に活動家と専門家のアウトリーチと第2に被害者の集合という、2つの相互に結び付いた動きを伴なっていた。

1999年のアスベスト禁止国際書記局(IBAS)の創設と2001年のアスベスト貿易に関する世界貿易機関(WTO)の決定を含め、国際的な進展は、活動家と専門家がアイデアを共有及び流布するうえでとりわけ重要だった。

ブラジル・オザスコ(2000年)、日本・東京(2004年)及びタイ・バンコク(2006年)の一連の活動家と被害者の集まりは、韓国におけるアスベスト禁止に向けた経験と戦略の共有に推進力を与えた。これは、韓国・釜山から移転したアスベスト紡織工場を調査するための一連のインドネシア訪問を含め、地下鉄労働者の調査(2004年)や古いアスベスト施設近隣住民の調査(2007年)などにつながった。

1995年の職業がんの最初の認定は、被害者を刺激した。

とりわけ、釜山の同じアスベスト紡織工場の被害者と家族はリスクを意識するようになり、2006年には最初の被害者の同僚労働者によるアスベスト関連疾患の認定のための裁判が提起された。2007年に、経験と情報を共有するために、元労働者の居所を探すキャンペーンが組織された。2007年のある環境調査の後、韓国・忠州南道でも同様の被害者の集まりがみられた。

2005年の日本のクボタショックの後、2006年の日本の全日本民主医療機関連合会と韓国の人道主義実践医師協議会の専門家の間の集まり(韓国・ソウル)や2007年の韓国の被害者・家族の日本・尼崎のクボタ工場訪問を含め、様々なレベルで韓国と日本の間でのアスベスト問題に関する情報の共有が行われた。

こうした取り組みが2008年の韓国石綿追放運動ネットワーク(BANKO)の設立につながった。

BANKOは、散発的に政治家とともに取り組む、被害者・家族、環境運動、労働組合、専門家、及び安全衛生活動家の上部組織である。タルク・ベビーパウダー(2009年)や球場の自然生成アスベストなど、以前は予測されていなかった状況におけるアスベスト汚染の報告とともに、一連の環境に関する懸念がBANKOによって提起された。

こうした活動に基づいて、活動家、被害者及びNGOsが、アスベストに関する政策の決定における日常的な関係者になった。健康に対する環境リスクの迫りくる可能性とともに、2009年のアスベスト禁止が正当な健康志向的解決策として受け入れられ、環境部が韓国におけるアスベスト政策をリードする部署になった。しかし、アスベスト禁止という目標を満たすためには、たとえ具体的証拠を欠いてしたとしても、予防的対策が必要になった。予防的管理に関する議論は、多かれ少なかれ健康志向的なものから、人権に基づいたものに移行した。リスクの見方の基礎におけるこの変化は、リスク管理の健康志向的文化的変化の段階を終わらせることにつながった。

3.5. 人権に基づく-ポスト文化的期間(2010年以降)

禁止後であってさえ、アスベスト問題は噴出した。

第1に、上述したように、たとえじん肺法の固有の欠陥のためにいくらか機能不全だったとしても、いくつかの基本的な補償プログラムがアスベスト関連疾患に罹患した労働者に利用可能であったとしても、環境被害者に対してはいかなるそのような措置もなかった。環境問題の規模を明らかにするために、活動家と専門家は、古いアスベスト鉱山または古いアスベスト製品製造施設近隣の調査で確認された環境被害者に対して補償が提供されるべきであることを強調した。石綿被害救済法が日本のモデルにしたがって2011年に制定された。

第2に、1960年代と1970年代からの古いアスベスト汚染地区に加えて、1980年代と1990年代からの相対的に最近の据え付けが広範囲に及んでおり、また、禁止後の新しい輸入でさえ、自転車用ブレーキなど、アスベスト製品を積んでいることが確認されている。これらと合わせて、公共の建物や施設からのアスベスト含有物の除去、都市部における大規模刷新プロジェクト、野球場、学校校庭、自転車用道路、ゴルフコースや公園など公共の場所に含まれた自然生成アスベストの是正は、管理政策の安全性とその慣行、とりわけ政府当局者のずさんな態度に対する一連の疑問を提起した。こうした議論が、2012年の石綿安全管理法の制定につながった。

石綿安全管理法の内容には、アスベスト含有場所のマッピング、労働者だけでなく一般の人々を含めた関係者の知る権利、除去手順の実施基準の策定と除去作業者に対する認可手続、及びアスベスト廃棄物の安全な取り扱い及び廃棄が含まれる。NGOsと被害者を含め、すべての関係者が、こうした規制内容が順守されるよう確保しなければならない。

4. 学んだ教訓

様々な段階に発展したアスベスト禁止につながった変化、及び各々の段階変化は、最終的禁止に至るのに必要だったのであり、そのなかで、様々な範疇の潜在的代替策の検討によって以前の問題を解決することなしには、最終的禁止は可能でなかったか、または開始されたとしても持続しなかっただろう。たんに政治的または行政的必要性から禁止を開始する国もあるかもしれないが、経済的実行可能性または調和のとれた健康保護のための社会的基礎など、他の状況が合致しなかった場合にすぐに立場が覆された例もあることをわれわれは知っている。

最初に、混沌とした段階が終わって政治的段階がはじまった。国際的な安全衛生基準を法律にもちこむことができた体制を正当化することが、独裁的指導者の必要性だった。しかし、政治的議論を社会的重要性のより広い問題に対処するよう拡大したのは、ようやく政治プロセスの民主化の後のことだった。その後この変化が、必要な場合に市民団体や被害者によって政治的窓を開けるための基礎を築いた。

いったん政治的-技術的問題が解決されると、経済的-管理的段階の間に、より合理化された経済のためのあらゆる種類の経済的代替策が追求された。たとえ新たな専門分野の創設や危険な工業プロセスの海外移転など、経済志向的な制度的及び管理的改革を伴なったとはいえ、健康というかたちでのリスク管理の証拠の蓄積は被害者の出現とともに明らかになり、経済的合理化の活動が健康志向的文化的変化への道を与えなければならなかった。

実際に、経済的合理化は、政治的制約のもとであってもはじめからそこにあったのであり、1972年の日本の労働安全衛生法直前の「自由放任」期間中に韓国へ移転した日本のアスベスト紡織工場は、韓国が1980年に自らの労働安全衛生法の準備ができたときにその投資を韓国から引き揚げた。アスベスト消費の傾向をより詳細に検討すれば、ブレーキライニングや造船向けのアスベスト代替産業がすでにはじまっていた1980年代に、総量が頭打ちになったことが指摘できる(図1)。

これに基づいて、韓国における全体的産業成長と比較した場合のアスベスト消費の相対的縮小は、1990年代の実際の縮小よりもはるかに早くはじまっていた。貿易パートナーからのアスベスト代替産業の例をともなった、国際化した経済におけるより幅広い代替策が、経済的-管理的段階及びその後におけるアスベスト産業の衰退に一層貢献した。

IBASによって確認された、すでにアスベスト禁止を開始した諸国におけるアスベスト産業の禁止前の状態をわれわれが検討したとき、すべての諸国で、彼らが禁止を開始する前に原料アスベストの使用はほとんど無視できるレベルに減少していた(図4[省略])。

その一方で、IBASによって確認された、禁止をしていない諸国では、アスベスト消費の総量は減少しているが、検討した期間にまだゼロまで落ちてはいなかった(図5)。

韓国が1997年にクロシドライトとアモサイトを、また2003年にアスベスト様トレモライト、アンソフィライト及びアクチノライトを禁止したとき、それら鉱物を使用していた産業はなかった。この点で、健康リスクの見方の変化の結果であろうと、または経済的リスク査定の結果であろうと、アスベスト産業の経済的正当性が、最終的禁止の実施のために必要であるとわれわれは考える。

背景におけるこうした変化とともに、政治的-技術的から、またその後の経済的-管理的からの移行の後に、アスベスト関連問題の証拠の増大とともに文化的変化によって、アスベスト禁止はもたらされ得た。ここで、カナダとフランスの間のアスベスト紛争における2001年のWTOの決定や日本における2005年のクボタショックなど、周辺の経験に基づいて、健康リスクは潜在的脅威以上のものとして理解された。

マスメディアにおける禁止の議論のなかで、環境的な健康脅威がきわめて重要なものと理解されたことを指摘しておくべきである。

禁止後でさえ、とりわけアスベストの引き続く負荷を負うであろう子供や次の世代のための、人権に対する考慮なしには、禁止は効果的ではなかった。人権を強調しつつ、韓国におけるじん肺プログラムによって証明されているように、医学的代替策は問題の根本原因に対する最終回答ではありえないことから、問題を医学に限定しすぎることを避けることも重要である。実際、政治、経済、健康、及び人権の間の調和のとれたクロスチェックなしのやみくもの医学化は、韓国の職業病補償機関が一度は石綿肺被害者の診断に生検を要求したように、問題解決の重大な障害になり得る。

韓国における段階移行に関しては、早い段階では相対的に容易な代替策が採用されるべきである一方で、後の段階のためにより困難なものがとっておかれたことから、変化の上述した順序を観察することができたとわれわれは考える。変化のこの容易さのゆえに、技術系官僚と専門家によって提唱されたものとして、政治的決定によって技術的措置が最初に採用されたと考える。経済的正当化、健康保護、及び人権に敏感な変化は達成するのがはるかに困難であり、こうした困難さのためにそれらは後の段階に引き延ばされた。要するに、安全衛生問題の相対的に容易な範囲に対処することが、残された、しかしより困難な問題に対する代替策の探求につながり、この探求が結果的にある段階から別の段階への移行につながったとわれわれは考える。

最後に強調する点は、予防原則は人権アプローチに基づいてのみ適用され得ることから、われわれは、アスベスト問題は他の安全衛生問題のためのよい事例となる強力な教訓であることを見出した。実際にわれわれは、消費者団体や環境NGOsの発がん物質ゼロ運動が2009年にはじまり、主要な労働組合による職業がん認定の大量請求を通じた職業がん認定運動が2010年に開始できるようになったという、発がん物質についての認識についてのいくつか他のスピンオフを見ている。

5. 結論

振り返ってみると、すべての変化が禁止のために必要であった。

アスベスト禁止を実現するためには、まず合法的な政治的窓が必要だった。政治プロセスの民主化が社会的議論を政治的干渉から開放し、その後、被害者のための政治的窓を開く機会を提供した。産業の経済的利益が政治的権力と結びついていたら、変化は、不可能ではなかったとしても、非常に困難だったかもしれないとわれわれは考える。

民主化はまた、より幅広い経済的代替策とともに、経済的正当化を可能にした。経済的代替策のいくつかには、アスベスト代替産業や、アスベスト除去産業さえも含まれた。実際、アスベスト禁止後に、原料アスベストを輸入していた者は、どこにアスベストが据え付けられているかに関する自前の経験をもっていることから、アスベスト除去や保護サービスに転換した。

健康志向的文化的変化の段階で、リスクの見方に関する文化の変化において健康科学がきわめて重要であったのであり、その後健康研究のプロセスと経験は、しかし先進国の見方からすれば初歩的または低レベルかもしれないが、適切な医学的診断及び管理を含め、医学的代替策を伴なった問題解決手順の構築の基礎であった。

最後に、禁止を実現するためにはわれわれは人権に対する敏感さが必要であり、これはとりわけ環境衛生について促進された。もっとも集中した明らかな問題は職業領域にあるが、われわれは、社会的に不利な職業グループ、子供、先住民族、及び移住労働者を含め-すべての者のための人権のより幅広いアプローチを必要とした。

アスベスト禁止は、合法的政治的窓、経済的正当化、健康リスク保護、及び人権感度を含め、こうした諸問題のすべての代替策が利用可能になったときに導入することができた。われわれがもった代替策は完ぺきなかたちではなく、多かれ少なかれゆるく結合されたかたちであると考えており、それゆえ不完全性を補うために、様々な関係者の間の連帯を構築する方法をみつけなければならない。

※原文:https://www.mdpi.com/1660-4601/15/2/198
筆者は、Yu-Ryong Yoon1, Kyeong Min Kwakl2, Yeyong Choi3, Kanwoo Youn4, Jinwook Bahk5, Dong-Mug Kang6 ID and Domyung Paek1,7,
1 ソウル国立大学校公衆衛生院環境衛生学部、韓国
2 嘉泉大学校Gil医療センター職業環境医学部、韓国
3 アジア環境保健市民センター、韓国
4 源進緑色病院職業環境医学部、韓国
5 啓明大学校公衆衛生学部、韓国
6 プサン国立大学校梁山病院職業環境医学部、韓国
7 ソウル国立大学校健康環境研究所、韓国

*責任筆者

安全センター情報2021年10月号