故天明佳臣先生を偲ぶ会/横浜●出稼ぎ・港湾病・アスベスト・外国人医療・草の根国際交流…

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今井明さんが作成して偲ぶ会会場に掲示されたパネル

2022年11月12日に故天明先生を偲ぶ会が開かれました。会場は横浜の波止場会館(横浜市港湾労働会館)のホールでした。
医療生協新理事長の港町診療所所長の澤田貴志医師の司会で進められました。在りし日の天明先生の映像・写真を見てから会は始まりました。5名の方からのスピーチとそれにまつわる関係者のコメントで多くの方からお話を聞くことができました。
平野敏夫医師による出稼ぎ者の健康維持への活動の報告。この日に発行が間に合って参加者に贈られた『出稼ぎと医療―「出稼ぎ者健康管理ネットワーク」の歩み』の紹介がされました。天明先生とは40年に及ぶお付き合いということでエピソードが語られました。じん肺の方が見つかったというとすぐ現場へ。現場へ行って改善し、安全・安心で働ける職場にしていくという実行力。天明先生の意思を引き継いでいこうと締めくくりました。秋田から3名の方が参加されていて、出稼ぎ労働者の組合を作られた当時のことを話されました。
全国安全センター/石綿対策全国連絡会議の古谷杉郎さんは「横須賀からアスベスト問題を世界的課題に」と題した報告。天明先生のアジア各地での活動が紹介されました。
斎藤竜太医師は港湾病の取り組みと神奈川労災職業病センターの活動について語った後、天明先生と約束ということでアカペラで子守歌を熱唱され、感動の拍手を受けていました。
移住者と連帯するネットワークの山岸素子事務局長は、かつて神奈川労災職業病センターの職員の時の思い出を披露されました。天明先生の働く人の話を聞いている姿、世界に視野を広げている姿をみて心から信頼できると思ったとのこと。
全港湾横浜支部の鈴木誠一さんは、医療生協を支え続けた40年余というテーマでしたが、支えられてきたと話されました。神奈川労災職業病センターや港町診療所の設立に大きく関わられた全港湾横浜支部の元委員長の庄司泰男さんも少し前に亡くなられたという報告もありました。
韓国からヤン・ギルスン源進職業病管理財団理事長が参加されて、日本語による追悼文を通訳の方が読み上げられました。少し紹介すると、「香港で初めて労住医連の方々と会って、その後30年余り交流を続けてきたこと。遠く離れていても医療が社会で果たすべき役割をきちんと果たすための仕事は、同じ方向、同じ志で続いてきたと思う。天明先生のご冥福をお祈りいたします。」
天明先生のご子息の晃太郎さんが参加されており、ご挨拶されました。天明先生の書斎を整理していて、机の上に「明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ」という言葉が貼ってあったとのこと。調べたらマハトマ・ガンジーの言葉だったとのことでした。
労働科学研究所の小木和孝さん、全統一労組の鳥井一平さん、関西労働者安全センターの片岡明彦さん、ZOOMで参加の湘南中央病院の今井重信医師、過労死家族の会の宮本さん等々、多くの皆さんの発言がありました。
偲ぶ会参加者が異口同音に語ったことは、天明先生は労災職業病等の問題がわかったらすぐ対策をとったということ。世界基準を持ち込んだこと。先生の意思は引き継がれていく。人を大切にされて、仲間を増やして多くの仕事をされた先生に感謝いたします。とても良い偲ぶ会でした。
(労住医連・市川若子)

天明佳臣(てんみょう・よしおみ)先生には、2001~2012年の間、全国安全センターの議長を努めていただいたが、神奈川労災職業病センターと神奈川県勤労者医療生活協同組合、労働者住民医療機関連絡会議や石綿対策全国連絡会議等の代表の役職にも就いていただき、現実には肩書きにかかわりなく、お世話になった大恩人である。2012年に一葉社から出版した『産業医と臨床医 二足のわらじで時代を穿つ』には、安全センター情報とかながわ労災職業病に寄稿していただいた多くの文章が収録されており、ぜひ読み直していただきたい。
神奈川労災職業病ウエブサイトには、以下のような次第で行われたインタビューが掲載されている。

神奈川労災職業病センター所長及び神奈川県勤労者医療生活協同組合の港町診療所の所長、そして医療生協の理事長を長年務められた天明佳臣先生が、2022年5月30日に亡くなられました。享年90歳。亡くなられる直前までライフワークのひとつ、東北からの出稼ぎ農民についての報告を書き綴られ、亡くなる2日前に完成させていました。天明先生の人柄と思いの強さに感服するばかりです。
今回、神奈川労災職業病センターの機関誌に掲載するのは2018年に『記憶を記録に』という企画を立て、天明先生に何回かに分けてお話しいただいた記録です。しっかりと準備され、お話をして頂きました。なお『記憶を記録に』という企画は『じん肺被災者支援基金』の支援によるものです。
この40年を超える活動についてのお話を聞くと、あらためて天明先生の活動の広さ、つながりの深さを感じます。お話の中で出てきますが、1979年8月にオープンする港町診療所の所長に就任されたのは、たまたまの好機とでも言うべきでしょうか。1978年1月に結成された神奈川労災職業病センターのメンバーはあまり天明先生のことを知らなかったのです。その天明先生と活動を一緒にしたのは、お話の中にも出てくる当時の横浜市立市民病院の調理師の2人が心筋梗塞で倒れ、公務災害の認定についての相談からです。
港町診療所ができる直前、2回にわたって市民病院の調理職場で調査を行いました。そこは半地下で夏の暑さと、調理の火の熱とが合わさって大変な暑さと疲労でした。調理具材の調達で冷蔵庫に入り作業し、そして冷蔵庫から出てきたら暑い中で火を使うという仕事です。天明先生は労働科学研究所の方々と一緒になって調査し、その結果をもとに職場環境が原因となる心筋梗塞として報告書を作り、横浜市当局へ突き付けました。そして見事に公務災害認定がされます。さらにその影響もあって、建て替えた後の横浜市民病院の調理職場は建物の一番上階に作られました。
神奈川労災職業病センターは発足以来、いわば突進力、何が何でも労災として認めさせるぞ!と企業や行政に迫る活動をメインにしてきたので、このような天明流とも言うべき活動はこれまでにない新しい展望を開きました。また港町診療所がオープンした1979年10月から始めた『労災職業病講座』では、ビラ配りや電柱へのポスター貼り、労働組合への働きかけを行いました。各会場が予想以上の大盛況で、天明先生にも講師として重要な役割を果たしていただきました。
天明先生の取り組みが、神奈川労災職業病センターの活動の大きな礎となったのです。感傷に浸りながら、天明先生のインタビューを読んで頂ければ幸いです。 

https://koshc.org/archives/1304

偲ぶ会の記録もいずれ、同センターのウエブサイトで紹介される予定である。

(古谷杉郎/全国安全センター事務局長)

安全センター情報2023年1・2月号