特集/関西労働者安全センター50周年記念『地域安全センターのこれまでとこれから』全国安全センター第34回総会記念講演●平野敏夫(全国労働安全衛生センター連絡会議議長)

平野敏夫(ひらのとしお)

1949年島根県浜田市生まれ。
1975年東京大学医学部卒業。以後、東京の八王子中央診療所、河北病院、葛西中央病院で内科勤務医として勤務。葛西中央病院では労働組合を結成し地区労に参加し活動する。1978年、地域の労働組合と共に東部労災職業病研究会(1998年、NPO東京労働安全衛生センターに改組)を結成、地域の中小零細企業の労災職業問題に取り組む。1990年、働くもののための診療所として、地域の労働組合や医師らとともに亀戸ひまわり診療所を設立し現在に至る。
2012年から全国労働安全衛生センター連絡会議議長。

地域安全センター設立の経過

昨日の関西労働者安全センター50周年記念集会の話を聞いていて、こういうこともあったんだなと、かなり私の記憶から薄れてるところも結構あったり。やはり、当然ですが、東京と大阪ですから知らないこともあったりして、それぞれ地域安全センターの活動ということでは、かなり抜けているとこもあるかと思いますけど、とりあえずお話をして、皆さんの議論にまかせたいと思います。

いま19地域センターあるということなんですけれども、安全センターといえば日本労働者安全センターがありました。1963年に三井三池の大爆発-炭じん爆発がありました。今年はちょうど60周年ということで、新聞などで取り上げていました。合理化が進み保安無視の生産第一主義のなかで大きな事故が起こり、たくさんの方が犠牲になられたというなかで、合理化に対して「抵抗なくして安全なし」、「安全なくして労働なし」ということで、日本労働者安全センターが1966年に、総評、中立労連、単産を含めて設立されました。産業医をやっているところで、組合の若い、30代の労働者と話していると総評を知らない-当たり前ですよね。連合は知っていても総評は知らない。だから昔の話をするときに、総評って何ですかというところから説明するのも大変ですね。

目的は、「労働災害・職業病の発生を予期して、その発生要因を調べ上げ、その結果に基づいて、徹底的な改善を要求し、逆らうものには抵抗し、労働災害・職業病の発生を予防する」。こういう趣旨で作られました。後に総評の解散と連合の設立のとき-1989年に解散します。

1972年には労働安全衛生法が制定というか、労働基準法から分離して単独の法律になる。1972年。そして、地域安全センターが1970年代に設立されていきます。当時は労働運動も非常に強かったですから、地域の労働運動と連携して設立されていく。関西労働者安全センターが1973年。関西は当時、全金、全港湾などの労働組合と連携をして作られた。

私はまだ学生だったですよね。やはりその当時、東京でも関西のようなセンターを作りたいというのが、ある意味で憧れに近いものだったですね。遠くから見てて、労働運動も本当にすごいことをやっているし、そういう強い労働運動と一緒に連携して、労働者のための医療ということで安全センターが作られて、非常にダイナミックな、すごいことをやっているというイメージがありました。

安全センターと連携して、南労会松浦診療所ができた。私はいま亀戸ひまわり診療所にいるんですが、1990年にできるんですけどね。それを作るにあたって、やはり関西を見に行こうというんで、4~5人くらいで安全センターと南労会の診療所を見学させてもらった記憶があります。東京から見て、関西安全センターあるいは南労会の診療所はお手本みたいな、ああいうものを東京でも作っていきたいという思いは非常にあったんですよね。

関西の後、大分、高知、神奈川、東京などに地域安全センターができていく。それぞれ各地域センターが成り立ちが違っていて、私も全部知っているわけではないのですが、高知などは、全林野-林業の振動病の被災者の皆さんと一緒に作りました。神奈川には私はいろいろかかわっていて、神奈川労災職病センターの結成から少しは関係を持ってきたので、わりあい知っています。神奈川はやはり、全港湾の港湾病、全造船日本鋼管の腰痛の認定闘争などがあり、とくに全港湾の力が大きかった。労災職業病センターを作って、その後神奈川県勤労者医療生協、港町診療所ができていくんですね。

実はちょうど港町診療所ができたときに、私は医者にはなっていたんですが、ちょっとぷらぷら、と言うと変ですが、就職先がはっきりまだなかったんですよ。そういえば、医者になるのなんかやめようかなと思ったりもしながらぷらぷらしていたものだから。港町診療所ができるにあたって、お前が所長になれという話があり、かなりしつこく言われました。実はその時は-東京東部労災職業病研究会はできてなかったんですけど-俺はもう東京東部に骨を埋めるとか言って、引っ越した直後だったんですね。東京東部も、歴史的な労働運動がありましたので、そんなのにこうした憧れみたいなものがあって亀戸に引っ越した直後だったので、駄目だって言って断ったんです。

そうしたら、ちょうど天明佳臣先生が、当時、農村医療を頑張ってやるということで山形の病院にいたのですけど、お父さんの具合が悪くなって、実家の東京に戻ってくることになったという情報を聞いた今井重信先生という整形外科の先生が、じゃあ天明さんに頼もうと。天明さんに港町診療所の所長になってくれと頼んだところ、タイミングよくて、わかりましたと引き受けてくれました。

ただ、最初は患者もいないですからね。天明さんを食わせる給料を出せないというか、少ないということで、天明さんに週一日くらいはアルバイトに行ってもらおうということになって、その分お前ちょっと穴を埋めろと言うんですね。私は東京から週二回ぐらい港町診療所に行っていました。

港湾病の集団検診なんかもやったりして、それらにも参加していたのが、当時1979年、80年頃。それが神奈川の話です。

東京は、いま東京労働安全衛生センターでNPOになってますけど。最初は東京東部労災職業病研究会というかたちで出発しました。東部というのは東京の東のいわゆる下町なんですね。江東区とか江戸川区とか、中小零細企業は多いところで、当然労働災害職業病も問題になっていましたし、当時地区労を中心に労働争議を含めて労働運動が活発だったところです。そういうところで、地区労と協力しながら労災職業病研究会を作ろうということで、準備会が1979年で、正式に発足したのが1981年です。それがその後、安全センターになり、NPOになりと、だんだんこう発展していくんですけど、それが東京です。

そういうふうに地域の労働組合とか、あるいは労災被災者と連携してできていったのが、各地の地域安全センターです。

もうひとつの特徴は、安全センターができて、被災者がたくさんいて、労働運動もあって、そういうなかで自前の医療機関を作っていくということがありました。当然、被災者の診断と治療、健康診断なども求められて、医療、医者の要素も大きいということで、自前で医療機関を作っていく。神奈川はいま言ったようにとりわけ全港湾の運動のなかで、神奈川県勤労者医療生活協同組合ができていく。大阪もそうですね、南労会ができていく。東京も、亀戸ひまわり診療所が1990年にできています。

神奈川は、港町診療所のほかに、アスベストの取り組み、横須賀の造船のアスベストの被災者発掘の運動などもあって、横須賀に勤労者医療生協の二番目の診療所として横須賀中央診療所ができています。いまアスベストセンターの所長をやっている名取雄司さんが所長で10年間やられた。そういうかたちでセンターと自前の医療機関と連携をしながら、地域でできていったという経過があると思います。

1989年には総評解散、連合結成。1990年に全国労働安全衛生センター連絡会議が発足することになります。当時15センターだったのがいま19センター。最初の議長が、公害Gメンとして有名で、当時神奈川労災職業病センターの所長になられたばかりの田尻宗昭さんでした。

その後、2005年にクボタショックということで、アスベスト問題がブレークする。その前々年にアスベストセンターをができています。名取さんが横須賀中央診療所の所長はやめて東京に来てたんですね。ひまわり診療所に週一回か二回くらいきていたんですけど、彼にアスベストセンターをやってくれと説得して発足して、その翌々年にクボタショック。ちょうどタイミングもよかった。その後、各地域安全センターにはアスベストの相談がいっぱいきて、いまに至ってるということだと思います。

大雑把な経過で、みなさんから後で捕捉してもらえれば思いますが、そういった経過のなかで地域安全センターができてきた。

安全センターの活動

安全センターの活動ということで、地域センターと全国センターがごっちゃになってますけど、少し整理してみました。

ひとつは、労災補償・安全衛生などに関する制度の改悪を許さず、働く者の立場に立った制度・政策の確立をめざすということです。全国センターと各地域センターが様々な労災保険法改悪や鍼灸治療制限、ホワイトカラーエグゼンプション反対等々、いろいろ運動してきました。最近では、アスベスト被害者・家族とともに、石綿健康被害救済法の改正等にも取り組んでいるところです。

それぞれ当事者、被災者と一緒に運動を作ってきましたし、ホワイトカラーエグゼンプション反対のときなども脳・心臓疾患の被災者、過労死の遺族との連携で連合なんかにも働きかけるなかに、全国安全センターの大きな役割はあったと思います。

それから、対厚生労働省交渉なども毎年行っています。まあ、どこまで成果があるか。とくに最近など、毎年参加すると、厚生労働省側では若い連中ばかりです。私は一応議長なんで、交渉の前に挨拶するんですけど、思わず皆さんも若いですねと言っちゃったんですよね。大体みんなもう20代が30代ぐらいです。こちらは20年、40年ずっとこの安全衛生をやってきた連中だから、ちゃんと心して話を聞けよなんて言ったことが記憶にあります。

各地域センターでは、労働局、労働基準監督署交渉をそれぞれやっています。神奈川などは、徹底していて全部の労働基準監督署をまわっています。東京はそこまでいかなくて、東部のいくつかの労働基準監督署をまわったり、東京労働局と、いろいろ要請を出してやっています。本来なら当然働く者の安全健康については熱心にやってるはずですし、こちらもやってるので、立場は違ってももうちょっと話し合ってもいいと思うんですけどね。われわれは別に喧嘩しに行ってるわけじゃないので。そういう話はしたいんですけど。向こうがなかなかフランクにはしてくれないので難しいですが。それでもできるだけ有意義な話し合いをしようということでやっているところです。

それから、労災職業病の被災者とその家族を支援すること。これがやはり、地域安全センターにとっては大きいですよね。被災者の駆け込み寺だということで、被災者の労災補償、あるいは裁判を含めて、闘いを支援するということで、いまや関西、神奈川、東京、名古屋、兵庫等々、専従者の相談能力というか力量というのはすごいと思います。

これも余談になりますけど。私がはじめたころ、40数年前の東部労災職業病研究会は専従がいないわけですよ。みんな働いているし。医者が3人病院にいたんですけど、専従がいないものですから、私がその頃まだ勤務医で江戸川区の小さい病院に勤めたんですけど。被災者の相談がくると、その病院に来てもらって診察をして、診察中はあまり長い話はできないですから、待合室で待っていてもらって昼休みにいろいろ詳しい話を聞く。それで、また今度労職研のほうで詳しく話を聞くからと言って、話をしてもらって意見書みたいなものを作成する。労働基準監督署に申請に行くときには、私も一緒に行っていました。だいたい相談は地区労に持ち込んで、地区労の専従の方にも一緒に行ってもらったり。場合によってはかなり大きな相談だなというときは、地区労で労働組合を動員してもらって大勢で申請に行ったりもしていました。いまみたいに相談は多くはなかったですからね。

昔の話をあまりノスタルジックにしてもしょうがありませんが。慈恵医大という大学病院の看護師さんで頸肩腕障害になったんですけど、業務外認定になって、審査請求でもだめで、労働保険審査会にかかりました。いまでも覚えてるのですが、労働保険審査会って浜松町のビルにあるんですよ。審査会の当日、私も代理人になってましたから。そうそうその日ちょうど港町診療所の診療の日だったんですよね。京浜東北線一本ですから、横浜から浜松町まで行ったら、フロアに赤旗が林立してるんです。地区労の東部ブロック共闘会議が動員して、フロアがいっぱいで傍聴席もいっぱい。その旗をかき分けながら証言に行ったことをいまでも鮮明に覚えています。そんなことができた時代ではありました。

そういった意味で、相談が少なかった分、一件一件丁寧にというか、いまでも丁寧にやってますけど、みんなで知恵を出し、いろいろな人に動いてもらってやった記憶があります。いまはたくさん相談が来ていますし、アスベストなどもいっぱい来るので、そんなようには多分できないですけど、その分、専従の皆さんの相談能力がすごく上がっているのが、地域安全センターの大きな力だと思います。

先ほど言いましたように、自前の医療機関ができました。神奈川、横須賀などで検診活動にも取り組むことができるようになりました。東京では、常盤炭田の炭鉱労働者のじん肺患者の掘り起こしをやってきました。これは、私がひまわり診療所の前にいた病院に、東京に出稼ぎに来ていた元常盤炭田の労働者がたまたま咳が止まらないということ来たんです。診察をしたらじん肺があったということで、申請をして労災になった。その方が、実は故郷にはいっぱい退職者がいるんだよという話になって、じゃあ検診に行こうかということだったんですね。それで、検診車を、仕立てて、そのときは神奈川の皆さんにも協力してもらって前日民宿に泊まって、検診をした。最初は55人ですかね。みんなじん肺があって、何人かは労災申請する。

それからさらに検診活動が広がりました。茨城から福島いわき市の方に広がっていった。そのなかで、被災者の方たちが、現地には医療機関がないので、東京まで診療に来られたんですね。常磐線に乗って来られて。もう40年くらい前ですが、当初200人くらいの方が、グループを作って毎日来られた。そういったじん肺被災者の患者さんもいて、ひまわり診療所の設立につながったわけです。

それから、医療機関と地域安全センター、あるいは労働組合の連携した活動としては、全建総連のアスベスト問題があります。アスベストは建設労働者にとって非常に大きな問題になるので、全建総連の国保組合でやってる一般健康診断のレントゲン写真を診療所に送ってもらい、それを私と名取さんともうひとり所長の毛利さんで読影して、初期のじん肺所見があるとかプラークがある人とかを診断をして、その人たちに二次診療というかたちで診療をしています。

あと安全センターとも協力をしてもらって、首都圏の方は診療所に来てもらいます。全国からレントゲン写真が来ます。青森、岩手、栃木。西は、鳥取、四国から来ます。そっちはもう出張して診療するというようなことも、安全センターと医療機関の連携ということでやっているところです。

それから、労災にはなったんだけど、早期打ち切り-症状固定で打ち切られそうだといった相談も受けます。これはやはりかなり医者の要素が大きいですよね。困るというか、労災になって普通の医療機関に行っていて、もう[症状]固定だよと。監督署からも固定だよって。医者も弱いものだから。そうですねなんて言ってしまうので。そこで初めて大変だってことで相談に来るんですけど。だいたいはひまわり診療所に転医してもらって、労災を引き続き続けるというようなこともやったりしています。

それから、全国センターですけど、ホットラインですね。アスベストホットライン、いじめハラスメントほっとラインなど、年に一回、二回やっています。昨日は、先日のメンタル労災認定・ハラスメント対策ほっとラインにたくさんの相談が寄せられたという報告もありました。

そういうなかから、患者会も結成されています。アスベストは、中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会が頑張ってますし。じん肺患者同盟はもうだいぶ小さくなってしまいました。横須賀はまだ支部があると思いますが、東京東部支部は最近解散しました。建設労働者の関係の支部はまだあって活動してますけど、みんなじん肺の患者さん、高齢化していたり、亡くなったりして、人数が減ってきてなかなか支部を維持できなくなってるんですね。これはもう全国的な傾向でしょうがないんですが。

頑張ってやってるところは頑張っている。最近は神奈川で、精神障害、メンタルの労災の方の患者会ができたという話を聞いています。そういった患者会の活動。昔は、神奈川とか東京もそうでしたけど、被災者交流会というのを作っていました。いろいろな職業病の方、あるいは労災の方が患者会に入ってやっていたのですが、被災者の交流会というのは、病気が違うと抱えている問題も違うし、要求・要望も違ったりしてなかなかうまくいかないところもありましたね。途中で解散するとか、そういったことにもなったことを覚えています。アスベストとかじん肺だとか、同じ病気だと比較的、わりあいまとまって活動できるのかなっていうのはあります。

それから、被災者の労災補償なり裁判をやるんですけども、地域ユニオンなんかに加入してもらって、団体交渉で企業の上積み補償とかでを勝ち取る活動などもやられています。アスベストユニオン、被災者が労働組合を作って企業と団体交渉するというようなユニークな活動もやられてきています。

そういった意味で、被災者の相談を受け、補償を勝ち取っていく、サポートしていく、エンパワーメントしていく活動というのは、各地域センター活動の大きなひとつの柱になっているし、解決能力は非常に優れたものに、もちろん手前味噌ですけど、なっていると思います。

それから、これは昔から言われてるんですけど、当然被災者の補償を勝ち取る闘いは大事なんですけど、やはり労災職業病を出さない、予防の職場の安全衛生活動を支援することが大事だというふうに言われてるんですけど、なかなか難しいところがあります。これは職場に入れないといけないので、やはりその職場に労働組合がないと安全センターだけでこういうの言ったって入れないですからね。だから労働組合と連携をして取り組んでいくということですが、労働組合がなかなか、組織率も17%を割っているんですからね。ほとんどの労働者は未組織なので難しいところがあります。

ただ、そういった連携した取り組みもやってきています。東京などでは、安全衛生委員会のなかにセンターもメンバーに入れてもらってやったりするのもあるんですけど、なかなかまだ少ないですよね。そういう取り組みを通じて、専門家主導ではない労働者参加型の職場改善活動を生かす。全国センターの労働安全衛生学校の写真が出てましたけど、当時は労働組合が結構あって、労働組合を対象にした安全学校だったんです。東京ではその後もずっととりあえず毎年やっているんですよ。今回も30回目か、ずっとやってるんですけど、だんだん労働組合がなくなっていくんですよね。ここ数年、参加者を集めるのに非常に苦労してるんですね。

ですけど、なんとか東京は続けている。今年は、全建総連の建築現場の安全衛生ということで特化して、全建総連東京都連とタイアップして、開催しました。全建総連の書記の方も来られたりして、久しぶりに20数人でやれました。毎年ここのところ10人いくかいかないかくらいでやってきていますけど、なんとか続けてはいます。

それから、産業医の派遣というのは、東京だからできたというところもあると思うんですけど、産業医というのは私なんですね、要するに。東部労災職業病研究会の設立過程で、地区労と一緒にいろいろやってきたりしたこともあって、地域の労働組合とわりあい関係ができていたということと、それから前に勤務した病院で労働組合を結成をして、地区労に参加して、10年くらいやっていたんですね。

60床くらいの小さな病院で、組合を作ったんですけど、実はできる前日にバレてしまったんですね。この話をするとまた1時間くらい経ってしまいますが、一応結成しました。組合員5、6人の少数派組合です。準備会段階ではほとんど全員が参加したのですけど、結成の前日にバレてしまって。当日に看護師さんが看護師ステーションに集められて、婦長に個別に「あんた行くの」とやられた。不当労働行為ですが。それで崩されてしまい、結成大会には2人か3人の看護士さんと、栄養士さんと医者で…まあ余計な話はやめて、ともかく地区労に参加してずっとやった。そういうこともあって、地域の労働組合とわりあい親しかったということがありました。

そういう組合のある会社の産業医になってくれという話で、なったのがもう30年前。なかには、その当時いた産業医があまりやらないものだから、労働組合の春闘要求で平野を産業医にしろと要求をして、勝ち取ったというところもあります。その産業医がずっと続いているんです。なかにはもう労働組合はなくなった会社もあったり、あんまり組合は元気なくなったというのがあるんですけど、続いています。

産業医は、会社が委託するんですよね、お金を出して。それを安全センターに委託するようにという話をして、安全センターに委託をして、安全センターの産業医である平野が産業医で行くというかたちにしました。だから、委託料は全部安全センターの活動資金にもなるということで、一石二鳥なんです。それで、産業医をやっているところがいま5、6件です。

それで、安全衛生委員会でいろいろやっていく。産業医って基本的に中立の立場なんですけど、そういう経過もあるものですから、私は100%労働組合の立場でやってる産業医なんで、組合側の委員と一緒に苦労したり、ときには組合側委員を煽ったりすることもあるんですけど、そういうことで。なかにはその関係で、安全センターのメンバーを安全衛生委員会にも参加してもらっている会社もあります。

あるいは、環境測定も東京センターはやっているんですけど、有機溶剤とか粉じんの環境測定も安全センターでやるということで、連携をしていくいうようなこともやっています。産業医については、東京センターの特殊事情ということも少しあるかなと思いますけれど、そういうこともやってる。環境測定では、関西は環境監視研究所があって非常に大きな活動をしていたというのも、関西センターではあると思います。

これから安全センターが職場でどう安全性衛生に関わっていけるかという、この後の課題とも関係してきますが、労働組合がないところではやはり難しく、ひとつの課題ではあると思いますね。

資料・情報などの収集と提供、機関紙の発行やウェブなどで発信する。全国センターの機関紙「安全センター情報」毎月、情報がたくさんあって、非常に貴重な情報もいっぱい入ってますので、なかなか私も全部読み切れないんですけど。なるべく読むようにしてるんですけどね、難しい。だから厚生労働省の役人もたぶん見てると思いますよね。機関紙での情報発信というのは非常に大事ですし、ずっとやってきている。

課題別のネットワーク・プロジェクト・ホットライン活動。これも、先ほど言いましたけれど、ネットワークで言えば原発被曝労働ネットワークということで、被曝労働者ユニオンとか他の団体とネットワークを作って、これも年に2回くらい省庁交渉、東電を相手した交渉をやってきています。外国人労働者では、「外国人労働者労災白書」というのを昔作ったりしてますし、情報公開については榊原さんを中心に情報公開推進局をやっている。そういったか課題別の活動。

それから、調査研究活動ということでいくといろいろあるんですけど、最近で言うと、2011年の東日本大震災の倒壊した建物のアスベスト飛散の話から、さらにさかのぼって阪神淡路大震災のアスベスト被害についての現地調査とかやっていますし、長野の水害とか-水害洪水でも建物は倒壊しますので、アスベスの飛散のがやはり問題になってくるというようなことで、いろいろ調査・研究してる。

それから、リスコミュニケーションと言いますと、建物の解体とかでアスベストが地域に飛散するわけで、住民に対して被害が及ぶこともあるので、住民から結構アスベストセンターに相談が来るんですけどね。そういうときに住民に対してリスクリスクコミュニケーション-リスクをちゃんと話しながら、コミュニケーションをとって、解体作業に対していろいろこう注文をつけていくというようなこともアスベストセンターと一緒にやっています。一番最近では、東京の築地市場の解体作業。これは、東京センターもそうですけど、アスベセンターの永倉さんがかなり一生懸命やっていただいて、東京都とかなり連携を取りながらやって、非常に模範的な解体がやられたということになって、最近都議会では東京センターの名前が出て、この件について評価されてるっていう話があったと永倉さんから聞きました。そういった調査研究活動もしている。

それから、国際交流連帯活動。ABAN-アジア・アスベスト禁止ネットワーク、ANROEV-労災・公害被害者の権利のためのアジアネットワーク。これは、国際局と言いますが、古谷さんがこの間ずっと中心になってやっていただいています。メコンデルタは東京センターの活動なんですけど、ちょっとユニークというか、ベトナムのカント市と技術協定を結んでいて、最初は、中小企業の安全衛生の交流ということで、私も20年前に行ったんですけど。最近は、中高生の生活改善活動とかちょっと変わってきてるんですけど、まあ、ずっと毎年ベトナムとの交流は続けられているというようなことがあります。

以上が、安全センターがこういう活動をしているよということです。

安全センターのこれから

これからということなんですけどね。昨日も関西センター50周年ということで、50年を懐かしがっていたのではしょうがないと。これからを考えていこうということで3つの課題で勉強しましたけど、これからどうしようかと。もちろん精一杯やるんですけど、そういうことですね。

昨日も言われてましたけど、労働組合が元気がないというふうに言われてもう久しいんですけど。東京センターの東京の東部、先ほどお話しした下町の中小零細企業で、私はずっともう40年以上ある意味定点観測をしてるんだけど。本当に変わりましたよね。30年、40年でこんなに変わるのかっていうくらい変わった。昔は地区労を中心に、何かあるとみんなで取り組んで元気だったんですけど、最近はそういうこともなくなってきています。ただ、地域医療、これは東京だけじゃなくて、各地域で地域医療はその分頑張ってきています。

現場も非正規労働者が増えてきてます。外国労働者もどんどん増えてきている。われわれも一生懸命こうやっていろいろ運動してるんですけども、相変わらず長時間労働は続いているし、メンタルヘルス、いじめ、セクハラ、パワハラなんかも後を絶たないという状況ですね。一方で、潜在する職業病ということで、じん肺もそうですけど。有機溶剤などの化学物質による健康障害など。有機溶剤もけっこうちょこちょこ相談きますよね。化学物質過敏症などもそうですし、ジアセチルなんていう新しい化学物質の肺の胸部疾患なんかも相談に来て、労災認定はされるというようなこともあります。胆管がん、膀胱がんも。

私は産業医なんですけども、産業医というのは別に免許じゃないんです。医師会認定で、認定されないとやはりできないんですよ。そのためには、医師会の講習があり、高い料金を取るんですよ。とくに私は医師会に入ってないからたくさん取られる。産業医になっても、5年間でその講習で点数を20点取らないと、剥奪されるんですよ。その講習会に出て、この講習は2点だ、3点だと。

しょうがないから行くんですけど。先日たまたま化学物質の新しい規制が始まるので、そのテーマの講習があったので行ったんです。講師が、愛知かどこかの労働局で働いていた方で、開口一番、この化学物質の自律的管理っていうんですけど、変わったきっかけは胆管がん・膀胱がんだと言ってました。この間胆管がん・膀胱がんの報告があって、いままでノーチェックだった化学物質による健康被害が明るみになった。いままでの法規制だけじゃ十分じゃないと、やはりもっと広く網をかけて、会社にちゃんとリスクアセスメントをさせてやらせようという発想なんですけど。やはり大きなきっかけは胆管がん・膀胱がんだったと。

われわれの活動が、とくに胆管がんは関西センターが。また余談になりますが、胆管がんは、一番最初に片岡さんがきいてきました。私は全然経験なくて。ただ唯一クロムの被災者のなかに胆管がんが一人いたんですけど。いたけど、それがクロムのせいかどうかなんとも言えないなあ、なんて話をしたんですよね。その後も関西は諦めずにしつこくやって、ああいうかたちになったんですけど。こういう大事な運動、闘いからやはりこう行政を動かしていく。これは、化学物質だけじゃなくて、パワハラ防止法だって、厚生労働省交渉でパワハラに対する対策マニュアルを作れとずっと要求してたわけですから。それが全部通ったとは言えないですけど、やっとパワハラ防止法とかできて、中小企業も義務化される。フリーランスの労災、ウーバーイーツユニオンの調査に東京センターが協力したりなどもあって、いろいろ行政当局も動き出してるということあるわけですが、不十分ですよね。やはりわれわれ安全センターでしっかり監視しながら、厚生労働省交渉なり、局交渉、労基署交渉でやはり追求していくというのは大事な課題だと思います。アスベストもそうです。

ILO総会では、あらためて労働者の健康安全が大事だという、当たり前のことですけどね、基本的原則・権利として確認されました。

そういうなかで、課題-できることですね。

被災者の補償・治療は、これは各地域センターもう非常に得意な分野ですし、大きな力がある。ただ、去年、栃木県で、会社の横領の横領疑惑をかけられて、それによってうつになってしまった労働者がいて、結局、冤罪だったんですけどね。会社の横領事件の嫌疑をかけられたということで労災じゃないかということで、監督署に相談に行くんですけどね。監督署はそんなんじゃ労災にならないよと。これもいけないんですけど、返されてしまう。それで悶々としてるうちに自殺されてしまった。東京センターなり神奈川センターをみつけて電話一本してくれたら死なずにすんだのにと本当に思いました。そういう意味では、これだけいろいろやっているのに、案外まだ知られてないですよね。ホットラインなんかもやっていて、結構全国から電話があったりするんですけど。やはりまだまだ、宣伝を強化しなくちゃいけないと、非常に思いました。

医療機関と連携しているところも多いので、東京でもそうですけれど、安全センターに相談があると、有機溶剤にしろ、じん肺、アスベストにしろ、2階に診療所があるのでとまわしたりもするんですけど。協力してくれる医療機関がないとなかなかそういう相談も難しいところあるんですけど、そのへんがちょっと各地域センターが困ってるところもあるのかなと思っています。

日本労働者安全センターは、抵抗なくして安全なしだったのですが、抵抗だけじゃなく、労働者自らが参加して安全・健康な職場を作っていくような取り組みもできたらいいなというふうに思っています。安全センターが協力しながらそういった取り組みができるかのではないかと。労働組合で安全健康プロジェクトなんて作っているところもあるんですけど、全然機能してないですね、東京で残念ながら。安全学校も毎年東京センターでやってるんですけど、なかなか労働組合の参加が難しい。

また昔話で申し訳ないんですけど。それこそ東部労職研の頃は、運営委員数人で地区労にお願いをして、組合まわりなんかもさせてもらったんですよね。組合まわりしていろいろ情報交換したり、じん肺の話をしたりなんてことをやったんですけども、いまはそういうのはできなくなってるので、まあそれは昔をなつかしがってもしょうがないので、どうしようかと思います。

組合がない、弱いとかあまり言ってもしょうがないんでね。われわれは労働組合じゃないんで、組織化をするとかそういうことはできない。安全センターとして何ができるのかということだと思うんですけど。ただ、なかなか職場に入れないのは残念ですよね。

東京はまあ私が産業医ということでいるので、少しでもというようなことは考えたりします。でも、できるだけつながっていきたいなということで。ひとつは、被災者の相談を受けて、その被災者に組合に入ってもらう。ユニオンですよね。入ってもらって、当然労災補償とか裁判でやるんですけど、その被災者からなんかこう職場に入っていけないか。その被災者の人が治れば、職場復帰すれば職場に入っていける。そこで職場改善なり職場で取り組みがユニオンとしてできるかどうか。最近では、神奈川で三菱電機の方が職場復帰されたいう話があります。なかなか多くはないんですけど、東京でも、フィリピン人の腰痛の患者さんが復帰しています。だからユニオンとして職場で取り組めるとはいかないんですけど、職場復帰できればそこで組合として職場に影響を及ぼして、できれば改善の取り組みができるとということができればいいなと思っています。

あとは、医療機関とか産業医などと連携をして、できるだけ職場に入っていけないか。

それから、ひとつ思ったのは、運動の橋渡しというんですかね。去年、東京センターで、会計年度公務員、非正規の公務員労働者ですよね。かなり厳しい労働条件、労働環境ですのでいろいろ問題がある。それで「はむねっと」という団体があって、いろいろ取り組みをやってるんですけど、そこの方を呼んで学習会を行いました。オンラインも含めてハイブリッドでやり、結構たくさん参加していただきました。その学習会に、普段私なんかあまり付き合いないような大学の先生だとか、他のいろんな運動対象とかに参加していただいて、いろいろこうつながりができていくっていうかね。そういうの付き合いのないようなところとつながりができるっていうことを、あらためて感じたんです。安全センターがそういうひとつの橋渡しの場、ネットワークを作るひとつの軸になれるのかなと感じたところなんで、そういう役割もあると思います。

そういうような現状ですけども、ともかくできることをやる。やれることをやり、一生懸命コツコツとやっていくなかで、やはりできることをやるということで、やっていければと思っています。

最後に、新たな地域安全センターの設立についても、機会をとらえて常に考えていきたいと思います。

なんとか現場に、労働現場に入り込んでいきたいなって思います。なかなか難しいんですけど、そのへんも追求していければと思います。

ということで、いろいろと大雑把ですけど、ざっくりとこれまでの安全センター、地域センターの活動の整理と、これから何ができるかというあまり大した内容じゃないですけど、話をしてみました。

ありがとうございました。

安全センター情報2024年3月号