海外に行った『全泰壱』・・・・映画上映会と追慕曲で讃える日・中 2020年11月12日 韓国の労災・安全衛生

チョン・テイル映画上映会開いた中村猛氏/去る2018年5月に全北・全州を訪問した日本労働活動家中村猛氏の姿・民主労総全北本部提供

「1978年に日本で映画『オモニ』が封切りされた時は客席にいましたが、42年後に直接上映会を開くことにしました。」

日本、大阪の労働活動家中村猛氏(76)はうきうきした声を隠すことができなかった。30代の初めの建設労働者であった彼は、長時間労働に疲れて『このままでは死んでしまう』として労働運動に飛び込んだ。労組を弾圧する会社からのあくどいいじめに会った時、全泰壱と会った。全泰壱烈士とお母さん李小仙女史の闘争を描いた日本の映画『オモニ』を通じてだった。

▲全泰壱とお母さん李小仙を扱った映画『オモニ』のポスター

1978年日本で製作された映画『オモニ--怒りが燃え上がる』という全泰壱とお母さん李小仙女史の話を扱った。 韓国より先に日本で翻訳されて出版された『全泰壱評伝』を基に作られた(中村註:実際は「全泰壱評伝」の前にこの映画は作られているが、作製に至った経過はよく解らない)。9月、全泰壱財団は『第9周期李小仙オモニ追悼式』にオンラインで映画を上映した。

「勤労基準法を遵守せよ」という全泰壱の叫びはブルーカラー労働者である中村氏の胸に刺さった。当時日本労働組合総評議会(総評)は日本の俳優が出演するこの映画の上映運動を大々的に展開した。約40万人が映画を観覧し、収益金一部は李小仙女史に送られた。

全泰壱精神は韓日労働者連帯につながった。1989年に全北の日系会社で働いた韓国労働者が、廃業に抗議して日本に遠征闘争を来ると、中村氏は労働者の法的闘争を支援した。この縁を契機に李小仙女史とも会った。毎年この時期なると全泰壱烈士と李小仙女史が並んで埋められた京畿道南陽州、磨石の牡丹公園を訪ねたが、今年はコロナ19のために日本で見付けた映画『オモニ』を韓国に送った。

中村氏は「5月に在日韓国民主統一連合(韓統連)の昔の機関紙を見て『オモニ』を製作したという活動報告記録を探した」としながら「東京の事務室にDVD形態で保管中である映画を見付け、これを何枚かコピーして日本全域で上映会を開いている」と話した。9月には韓国でオンラインで上映会を開催した。

2002年『全泰壱評伝』が出版された中国でも、労働活動家が全泰壱逝去50周期を追悼した。2008年から文化共同体『北京労働者の家』で活動したルィトゥ(52)博士はパートナースノンと『きらびやかな光-全泰壱に捧げる歌』を作詞・作曲して全泰壱財団に送った。正規式円光大の韓中関係研究院の研究教授が翻訳を担当した。最近、女性ケア労働者らと一緒に歌『人生と向き合って』等を作ったルィトゥ博士に歌は「全泰壱に対する畏敬感を最もよく表現できる方法」だった。

▲全泰壱に捧げる歌を使った中国作家と歌手

ルィトゥ(左)・スンホン(右)
ルィトゥ本人提供

中国で労働者を研究するルィトゥ(左側)博士とパートナースノンは全泰壱50周期をむかえて‘きらびやかな光-全泰壱に捧げる歌’を作詞・作曲した。

彼はバス代を節約して幼い女工に草パンを買おうと歩いて出退勤し、勤労監督官に不条理を告発した全泰壱の行跡を、歌詞の一行一行に溶かした。ルィトゥ博士は2015年にソウル、東大門の平和市場で全泰壱の銅像を見た瞬間を生き生きと憶えている。彼は「韓国は善良で勇敢な全泰壱が誕生したところ」としながら「相変らず多くの人が全泰壱の精神を継承するという事実も知っている」と話した。

二人の労働活動家は全泰壱精神を『自身の声を出すこと』と解釈した。ルィトゥ博士は「中国労働者に必要なことは自身が真に願うことが何かを知っていること」と強調した。中村氏は「日本の若い世代が自身の労働環境を振り返ってみるように願う」と話した。全泰壱。『皆が大きく一つになる』という彼の名前のように、全泰壱精神は多くの人々を一つにまとめている。

2020年11月12日 ソウル新聞 キム・ジュヨン記者

http://www.seoul.co.kr/news/newsView.php?id=20201113003005